2016年5月11日

5月11日・水曜日。曇り時に雨。蒸し暑し。

ブロムクヴィストによる「安楽死」とは、もとロジャー・ベーコンに由来する言葉(euthanasia)のようだが、「死の不快を軽減し、患者に安らかな、苦痛の無い、だが自然の死」をえさせる助力を意味し、より狭義には医師の措置のもとになされる「医師的な慈悲による殺し」である。だからそれは、肉親等によって、断末魔の苦しみを絶つために行われる慈悲殺とは本質的に異なるものである。そして、この安楽死はそれに関わる医療的「措置・医師・患者」といった諸要因がそれぞれ動機論的、因果的に関係する次第によっていくつかのタイプに類別される。例えば、不治の苦痛の故に死を切望する患者に対して、これ以上の治療は無意味と判断する医師の薬剤投与の結果死する場合は、「自発的」安楽死と呼ばれる。対して、「強制的」とは、患者の意思を無視した薬剤投与による殺害のケースであり、これはナチが「慈悲殺」と称して行った場合が典型的であろうが、主に重度の身体・精神障害者に対する患者の意思を無視した薬剤投与による措置をいう。これは、紛れもない殺人行為である。最後に、「消極的」安楽死がある。同じく治療的な見込みの無い、患者の意思に基づく医療行為の中断によるケースがそれである。

ここで一点、注記をしておこう。「自然的」と「積極的」とは、いずれも薬剤投与による殺人に他ならない。だが、前者の眼目は殺人にではなく、先に述べたように、病苦の軽減という動機に発した点にあり、後者と結果は同じになるにしても、自立的個人の責任と自由意志を重視するカント主義的倫理観からすれば、両者には雲泥の差が有る、ということである。さて、以上の説明は、筆者によるかなり図式的な要約に過ぎないが、これによってもブロムクヴィストの論理の精緻さは窺知されるのではないか。

とは言え、容易に察せられるように、安楽死に対しては、宗教・法曹界他からの激しい反対論が巻き起こったのは当然である。著者は、これ等に対するブロムクヴィストの反論を丁寧に披瀝されているが、ここでは次の論点のみを挙げるにとどめたい。安楽死の実施は医師の「良心の麻痺」を招来し、彼の人格を毀損するとの批判を深刻に受け止めた。事実、この論点は、彼以降のことに属するが、やがて「安楽死」を否定し、医療の進歩と相まって「終末医療」へと至る契機となるものであった。しかしそれはまだ先の話である。当面彼は、この批判に対してこう考えた。「患者にとって最善と見なしうること」を、責任をもって実施するのが医師の勤めであり、彼は己が知識・技術・経験からみて安楽死が「最善」の措置と判断されれば、これを排除すべきではない。ここには先にみた、生命といえども、必ずしも最優先課題たりえず、とする彼の信念の反映があるのだろうか。それゆえに、彼は主張したのである。法律は医師のこの措置を「手助けするように修正される」べきである、と(以下、次回)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です