2016年5月6日

5月6日・金曜日。小雨。今週、休日のところ返上。本日の文章は4月15日・金曜日に続く。

ヘデビューとて、そう簡単に「死の幇助」の観念に思い至ったわけではない。まして彼女は死刑廃止論者である。そこには当然語りつくせぬ「生と死」の鬩ぎ合い、葛藤があった。5歳の折、「わたしは死にたくない」と呟きながら逝った妹(2歳)の声を、彼女は忘れることは出来ない。死とは誰にとっても底知れぬ恐怖であり、拒否したい人生上の痛恨事である事を良く知っている。

突き詰めれば、人は「生きていたい」のである。これまで医療は人々のこの根底の叫びに良く応えてきた。しかしその医療は今や別次元の難題を突きつけるにいたった。業病にのたうち回る病人の治療は、快癒をではなく、「拷問」と化しつつある。末期癌の激痛の中、母が「死なせて!助けて!死にたいの!」と叫ぶ「絶望的な願い」を、2ヶ月間、彼女はただ聞き続けなければならなかった。看護助手の時代にも、多くの患者たちの同様の悲惨を目の当たりにしてもいた。筆者がこの条に触れたとき、思わず『往生要集』の描く阿鼻地獄の惨状を想起させられた。だがここでの苦しみは源信の思いもしない底知れぬ荒廃がある。彼にとっての地獄とは罪人への刑罰であり、それゆえの意味もあったが、ここでは謂われない唯の「拷問」でしかないからである。その苦痛には意味も、救いも無く、言葉を絶した辛さ、悲しみのみが覆うのである。

ヘデビューの、人には自裁の権利があるとする主張と行動は、先にみた北欧キリスト教の「異教」とも言うべき強固な「個人主義」に育まれた事かもしれないが、同時にそれは彼女自身の生の軌跡の結果ではなかったか。とすれば、それは彼女自らが生み出したものであろう。しかし、その彼女の行動に確信とより深い思想的基盤を与えたのは、クラレンス・ブロムクヴィスト(1925-79)であった。後にスウェーデン・カロリンスカ医学研究所精神科医長となる彼は、『医療倫理学』(1971)をもって実践哲学の学位を取得し、スウェーデン最初の医療倫理学講師の席を得る。本書はまた、祖国の医療倫理思想を国際水準にまで高めたばかりか、北欧諸国に対する「最高水準の範例」ともなった、と言う著者の筆からも、その意義深さは推察されよう。

本書については、著者に従ってただ構成を窺うだけでも、広大な内容と他を寄せ付けぬ独自性が浮かび上がる。まず、医療倫理学が学問として成立するための学的基盤がすえられる。そこでは、西欧・北欧哲学史はもちろん、さらに「論理学・意味論・論証分析・メタ倫理学」を踏まえて、倫理学の成立とその本質規定がなされる。これを一言にして言えば、「人間的な社会生活の諸形式を発見しようとする人類共通の努力」の成果であり、「この課題は人々のよりよき、より幸福な生活に手を差し延べること」である。しかしその内容は、時代と社会の変容により一義的に規定され得ない。むしろ「倫理学は不断に発展し続けるダイナミックな学問」である他はないからである。これは「絶対的規定」を求めるカント的な普遍主義に対する徹底した北欧独自の価値相対主義の宣言であった。この点は、「生命が他のいかなるものにも優越して絶対的尊厳を有するという主張に対してブロムクヴィストは正当な関心を抱いてない」という著者の批評からも明らかであろう(次の文章も上げておこう。「妊娠中絶については賛成、反対の何れの立場に対しても絶対的根拠は存在しない」)。

かかる倫理思想をベースに、経験科学としての医療・医学を含めた医療倫理学の問題が摘出される。だが、この間の論理構造とその展開を要約する能力は、筆者にはない。宜しく、著者の真摯にして強靭な思索をたどって頂きたい。ここでは、ブロムクヴィストの「医療倫理学」からみた医療と「末期患者」との問題に限ることにしよう。

まず、彼の病気観をみよう。医療は、第一に病気の快癒を目指す営為であるから、病気や死の排除を専らとするのは当然だが、しかし極端にまで走り、それを病む人間を忘れる事になれば、別の問題を生ずる。そもそも生命体が死や病を免れることは不可能である。むしろ「病気と死は必ずしも悪者ではない」どころか、生活上の様々な危険と同じく、そこから多様な意味を汲み取れる「人生の本質的な要素」となる、そうした対象でもあり得る。往時、大家族の中で暮らす人たちにとって「死は日常生活の一部であり、全員が、子供すらが、加わるものであった。死は、現在と違って、よそ者でも、恐ろしいものでも、恥ずべきものでもなかった」。

だが、今や場面は変わった。死は概ね病院内の隔離と孤独に追いやられ、臨終にあって近親者たちとの意義ある別離の機会は失われた。これは甚大な消失である。最後を迎えつつある人との残された一日一日の関わりはその人自身の慰めであると共に、「いまわの時」になお、自己の尊厳を維持しながら健気であろうとするその人に触れる近親者は、生き死にのあり様を教えられ、それは「高質の豊かな人生経験」となるのである。

以上、死を生の重要な一要素とみる死生観を持つ医療が、終末期においていかなるものになるかは、最早明らかであろう。単なる延命を目指すのみの、しばしば拷問的になりかねない治療行為の否定である。「人間の生命に対する畏敬」に発する「死への幇助」への傾斜である(本日はここまで)。


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