2015年6月25日

6月25日・木曜日・晴れ。陽強し。

今日は、パソコンの前に座ること、早や小一時間。なにを記すべきか、一向に思い浮かばず、大いに弱った。頭の引き出しをアレコレ引っ張りだしてはみたものの、どうも適当な素材がみつからない。そろそろネタ切れになってきたのか。そこで、苦し紛れに、コンナ物を書いてみようと思い立つ。題して「分かる」とは、どう言うことか。自分でも覚束ないことをやっつけようとするのだから、その行方はしれない。その積りで、お付き合いを。

 『広辞苑』はいう。「2、事の筋道がはっきりする。了解される。合点がゆく。理解できる。3、明らかになる。判明する。」その事例として「試験の結果が分かる。犯人が分かる。」があげられている。2と3の「分かる」は、微妙に違う事が、何となく分かる。3では、起っている事柄の経過、結果が明らかになる、という意味になりそうだが、2の場合は、生じた(或いは、ている)事柄の理由、すなはち、因果の繋がり、を了解すると解したい。

これを歴史に当てはめて言えば、こうなる。生じた事を記述し、物語ること、これが歴史である。だからhistoryはstoryでもあるわけだ。しかし、ここで記述するといっても、生じた事柄をただ闇雲に書き留めることではない。それでは、事がデタラメに書き連ねられただけで、書いた当人でも何を書いたか分かるまい。まずは事を成り立たせている要素、成分を引きだし筋道を立てて書かなければなるまい。まずは時と場所を特定し、ドンナ状況の中で、誰が何を誰とどの様にしたから、この事が起った、といった具合だ。

しかし、これで事が物語れるか、と言えば、そうはいかない。引き出される要素、成分は、書き手が何を書きたいかによって、まるで異なってくるからだ。同じ事柄を対象にしていながら、全く異なる歴史絵巻が書かれる理由だ。一人のモデルを取り巻いた画学生達のデッサンが夫々違うように。そして、ここで特に言って置きたいことは、書き手を突き動かしてこれを書こうと決意させるのは、それは彼自身の自発的な意思の発露であるということだ。また、そうでなければならない。とすれば、ここでの書き手は、自立した独立人格が前提されている。だからその時、なにか強権的な力、意思が介在するようなことになれば、彼はそれに断固反対し、抵抗する存在でなければならない。そうでなければ、その物語は生じた事がらとは無縁、どころかそうした意思の都合の良いものへと変質しょう。歴史の改竄である。

上で、私は何か大事なことに触れた。歴史は物語りであり、それはまた書き手の自発性に発し、そうなると、歴史とは彼の書きたい事を、書きたいように書く、という事になる。確かに、そういう事だと、私は思うが、これでは学問としての歴史はどうなるのか。学問とは、自然科学、社会科学、人文科学の何であれ、その成果は誰によっても承認される、ある客観性を有するもの、少なくともそれを目指す営みであるに違いない。現在はその認識において、合意されなくとも、反証と検証を通じて一歩ずつ真理へと近づく営為であると信ずる。そのために歴史学にもそれ固有の方法と規律、要するにディシプリンがあるが、これについてはよしとしよう。ここでは、一点、こう付言しておきたい。以上のように歴史を考えると、同じ出来事、対象も、時代により、関心の推移により常に書き換えられ、見直され、新たな歴史が生まれるということである。

「分かる」という事を、私なりに分かろうとして、こんな事を書き連ねてきたのだが、本当は、人が分かる、とはどういう事かを考えたかったのである。本日はそのための予備作業という事で――もしかしたら、予備作業でも何でもなかったかも知れない――終わりとしよう。


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