2015年5月14日

5月14日・木曜日・真夏日、暑し。

 こんな例え話はどうだろう。れっきとした自分の家に、マンザラ知らないわけではない他人が住み着いて、戸主の君を差し置き、アーダ、コーダと横柄に暮らして、50年。彼には昔、たしかに、一方ならぬ世話になった。かくて、己が破産も免れた。だが彼には、こちらの生活が成り立つようになってこの方、誠心誠意、時には家族も投げ打ち、尽くしてきた。その事は、周囲の誰もが認めるところである。ミンナは言ってくれる。「オマエは良くやったよ。そろそろ独立して、対等の関係に立ってもバチはあたらネーンジャネーか。それにあの人だって、十分に分かっているよ」。

それとは別に、明敏な君はこの50年の内に、十分察するところがあった。あの人が自分を支えてくれたのは、俺の明日を慮っての事ではなかった。ソンナ気持ちは、恐らく煙ほどもなかったに違いない。むしろ、俺を利用できるとフンだから、助けてくれただけなんだ、と。でも、恩義はオンギだ。これを忘れちゃ江戸っ子ジャねー。しかし、今後はこちらも言うべきことは言わせてもらおう。少しは、あの人の振る舞いも、改めてもらわなければ、俺も家族も身が持たない。

こうして二人の間には、話し合いが始まるだろう。この両名がチャンとした大人であって、筋道の道理をわきまえておれば、それはケンカにはなるまい。それどころか、卑屈にならずに、率直に話し合いを申し入れた君の人格に敬意を表して、かえって二人の人間関係は信頼、友情に裏打ちされて、より深まりを増すことであろう。

だが、である。事がそんなに簡単にいくなら、君は50年も待ちはしなかった。もっと早くに話し合いをもてただろう。話がコジレル可能性は常にあったのだ。先の「アーダ、コーダ」の内容が、あれを食わせろ、コレを買え、と言ってる分にはまだしも我慢はできた。だが、ここを建て増し、あの土地を買え、と言うに及んでは、君の財力が付いていけない。その無理難題は募るばかりとなっては、もはや万事休す。 

この時、君ならどうする。私なら、「オマワリさーん」と駆け込み、お裁きにすがるだろう。こうなったら、過去の行きがかりを捨て、事を司法にゆだね、その結果に期待するほかはない。罪状は長期に及ぶ家屋の不法占拠、生活権の侵害・破壊、受忍限度を越えた肉体的・精神的苦痛等々であろう。これを訴状として訴えれば、そしてきちんとした調査に基づきそれが事実であると認定されれば、私は間違いなく勝訴になるにちがいない。これで負ければ、わが国に司法の正義はない、と断ぜざるを得まい。

私は何を言いたいのか。正義とは、法律に基づいて事の曲直が糺され、こうして決着を見たなら、それに従って速やかに現状の回復なり是正が図られる事だと思う。それに対する妨害があれば、警察権力が断固としてこれを排除する事が出来ねばならない。決して、○○組、××一家なんかに負けてはならないのだ。

社会の存立は正義の維持にある、と私に最初に教えてくれたのは、かのアダム・スミスであった。それはともあれ、正義が守られなければ、社会は存立し得ない事は確かである(ただ、ここで言う正義とは法の維持のことである。真・善・美につながる哲学や宗教的意味での正義は、私には論ずる能力はない)。その限り、全ての人間が勝手に、思いのまま振舞うことが出来るからだ(ホッブス)。そこで、現代社会では、最終的には司法が事の是非を確定するのである。

にも拘らず、現代のわが国では、最も重要な案件につき司法はその判断を留保し、行政の裁量権に委ねてしまったのである(これを統治行為論といい、他に裁量行為論、第三者行為論が加わる)。かくてわが国は「基地」と「原発」を止められない国になってしまったらしい。興味のある方は是非、矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)をご一読あれ。また、マスコミは著者を呼んで、彼に反対する学者、政治家、官僚達と徹底的な議論をさせてほしい。本書を読む限り、わが国は完全に米国の属国であり、押し付け憲法を嘆く以前の悲惨さであるからだ。これだけ独立国の矜持があるなら、彼らは一刻も早く著者を論破し、その疑いを晴らす義務があるはずだからだ。


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