2015年5月21日

5月21日・木曜日・暑し、風涼やか。

前回の末尾がアアなったのは、パソコンとの四時間近い苦闘とシサクに疲れ、いい加減メンドウになったからであった。しかしそれは、矢部氏の本を読んでいない向きには、やはり唐突で、分かりにくい。今回は、コレを補足し、もう少し意のあるものにしておこう。

ある事案を司法が判断しないという事は、その裁量権者の意のままに当事案が処理されることを意味する。つまり、それを所管する役所・行政の判断に委ねられる。たとえば、基地の建設、利用のあり方について、周辺住民が生活権の侵害、破壊を裁判に訴え、審議の過程で受忍の限度を越えた生活侵害の事実が認められても、司法がその当否の判断を回避し、政策当局の意思に委ねてしまえば、事態は何も変わらない。この場合、行政は何ら法を逸脱していないから、これをストップさせる国家権力・警察権力の発動はありえない。司法は法に書かれていることを実行するのみで、法の不備を正し、整備する仕事は立法府の職務である。

裁判では、原告の住民たちは、こう訴えるであろう。「基地建設は、憲法で保障する国民が文化的な生活を送る権利を侵害し、憲法違反である」。憲法は国の最高法規であり、各法令、政令、条例はなんであれ、憲法の下に服属し、コレを越える権力を持たない。新法は憲法との整合性を問われ、そのチェックをするのが内閣法制局である、とは法律入門書のイロハだ。とすれば、基地建設が憲法違反という訴えは、重大である。司法はこれに真摯に向き合わなければなるまい。

この問題を考えるにあたり、最良の事例は砂川事件(1955-57)である。米軍立川基地拡張に反対して燃え上がった闘争であり、流血の事態にまで発展した政治闘争であった。争点の第一は、米国軍の駐留は憲法九条二項に抵触するや否やであり、東京地裁では違憲としたが、高裁を飛び越え跳躍上告された最高裁では差し戻された。その経過については、ウィキペデイアでも何でも参照されて、お読み頂くことにして、ここでは矢部氏のつぎの指摘のみを引用しておきたい。「砂川裁判で田中耕太郎という最高裁長官・・・が、とんでもない最高裁判決を出してしまった。簡単に言うと、日米安保条約のような高度な政治問題については、最高裁は憲法判断をしないでよいという判決を出したわけです」(p.44)。これに続けて、氏は言う。「安保条約とそれに関する取り決めが、憲法をふくむ日本の国内法全体に優越する構造が、このとき法的に確定したわけです」。だから在日米軍は日本国内では、住宅地での低空飛行、米軍絡みの事故現場の封鎖(ここにはまた原発稼動の要請も含まれる)など何をやってもよいことになった、と。

この主張の当否を判別する能力を、残念ながら私はもたない。だからこそ、メデイアは著者に反論しうる論客を揃え、討論の場を用意して欲しい、と願うのである。私の見るところ、事態は矢部氏の指摘される方向に進んでいるようにもみえる。とすれば、事は深刻である。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です