2015年2月19日

2月19日・木曜日・晴。 

まず、私がここで言う政治化、統計化の意味についてハッキリさせておこう。その事柄が散発的に発生するだけで、なんら集合的でなければ、その数がいくら多くてもそれは統計化されない。それは大量現象のなかで常に生ずる偏倚、誤差として処理される類のものである。たとえば貧困。それが完全に個人の怠惰、怠慢、寄生的気質等以外のものでないとすれば、社会はその貧困を個人の責任に帰して放置するであろう。そうした人たちはどんな社会、どんな時代にも、ある比率で必ずみられるものである。ドストエフスキーは『死の家の記録』の中で、目の前に差し出された酒か小銭と引き換えに、重罪犯の身分と自分の軽罪の地位とを交換している人の事例を報告しているが、例えれば彼らはそういう人たちであろうか。そして、そのような人の貧困を古典的貧困と呼んだ人もいる。

これに対して、社会の仕組み、構造から必然的に生み出されるような貧困がある。豊かな田畑が少数の者達に独占されているというような仕組みである。ここではその仕組み、制度のゆえにいかな個人の努力もほとんど意味をなさない。ベトナム戦争期のベトナム農民はそんな仕組みの中で暮らしていた、と開高健はいう(『ベトナム戦記』)。これをここでの事に引き寄せていえば、大量に発生しているそうした貧困はその背後に説明され、回答されるべき意味をもった出来事になっている。その仕組みを変えない限り、その貧困は恒常的に、大量に発生しつづけるほかはない。その不平等や理不尽はやがて人々の意識に上り、問われ、その是正を求めて彼らは結束する。それが、政治化の意味である。

さて、これらを頭に入れて(もしかしたら、以上は全く不必要な饒舌であったかも知れぬが)、例の後藤氏の場合を考えたい。本件に対する安倍政権の対応は、その後幾つか批判も出たが、それはここでの問題ではない(もっとも、後智恵の批判はいくらでも出よう。だが、そんな事は政府にとって何の痛痒も感じまい)。むしろ総理自身が陣頭に立ち、人命尊重の立場からヨルダンに対策本部を設け、日本政府の立場を世界に発信し、「イスラム国」の理不尽を訴えた。そのような対応は映像にみる限り、迅速かつ断固としており、国民にたいして訴えるものがあったであろう。事実、過日の世論調査では肯定的な数値が高かったのである。

では、政府は何故これほどに手厚い対応をとったか。海外で事件に巻き込まれ、命を落とす国民はいくらでもいようが、その度にこのような扱いをされる訳はない。これについて朝日新聞は、ある教授二人の対談を掲載した。そこでは、海外で命を危うくされた日本人があれば、国家が彼らを救済するのは当然で、それは国内で路上に倒れた泥酔者を無条件で救急車を走らすのと同じだ、と主張されていた。これは、その後政府高官が後藤氏のシリア行を「蛮勇」としたことに対する一つの反応であったかもしれない。だが、私にはこの説に与することはできない。無条件で泥酔者を助けることは当然にしても、その泥酔を何らかの形でたしなめることは、やはりありえようからだ。

朝日の対談には事の本質はない。この度の事件に対しては、政府は出来る限りの事をした、と私はおもう。だがそれは、安倍政権だからではない。どの政権であろうと、その巧拙はともあれ、この程度の対応はしたであろうし、またせざるをえなかったはずである。さもなければ、世論の支持を失うからだ。事は世界の注視する政治ショーとなった。全力で後藤氏を救出する努力、姿勢をまずは国民に、そして世界に示さなければならない。人命を重視し、テロに屈せず、民主主義の価値を守り抜く政府であることを見せ付けなければならないのだ。つまり、後藤氏の命を守る姿勢を示すことで、実は国民の生命財産(全体)を断固死守する、またそれができる政権であることを誇示したのである。とすれば、ここでの問題はもはや後藤氏という個人ではなく、国民という全体であった。

しかも事はこれで終わらない。この度の有事で、政府はじつに多くの事を学んだはずである。現在のわが国の中東世界におけるプレゼンス、外交関係、彼らとの対応力、有事に対して行使し得る軍事的能力、そして世界の政治的、軍事的諸力に対するわが国の動員力が 現実にどの程度ものであるかを、机上での単なる演習ではなく、実践を通じて検証しえたのである。これは恐らく、集団的自衛権の問題に取り組む現政権にとっては、またとない好機であったであろう。以上は我がか細い脳髄が絞りだした単なるモウゲンである(この問題は次回にもう一回続く予定)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です