10月20日・月曜日。曇り。一昨日の大谷選手の活躍は、人間の域をはるかに超え、だから誰もがマンガの世界だと呆れた。大リーガーの面々も息をのみ、その後には感嘆の叫びしかなかった。その一々をネットニュースで読めるだけ読んでいると、人間とはどこまで高みに登れるのか、その能力と限界の問題を考えさせられる。
明日、国会では首班指名の選挙が行われ、高市新総裁が選出される予定である。このことについては、別の機会に所感を記したい。
10月24日・金曜日。雨。富士の初冠雪の報をきく。夏が去り、はや初冬の趣き。四季は三季になったか。
太平洋戦争開戦の翌年(昭和17年)、釧路の漁師町に生まれる。15歳で家出するまでの生活は、その後の混沌とした人生行路を予感させるものであった。アメリカに徹底して勝つ男を願って、父親がつけた「徹男」だが、小さな子供で母親の着物を好んでまとい、小学校で「男か女か分かんねえな」と言われて、女への「なりかけ」と呼ばれ、いつしか「テツコ」となる。漁師町であり、戦時でもあれば差別やいじめは免れない。そんな中「テツコに手を出すな」と守ってくれる番長の庇護があった。除夜の鐘を耳にしながらの初詣の帰途、通りかかった女郎屋の格子から覗いた「お女郎さんたち。白塗りしてこっちを見てるの。うわあ、きれいだな。大人になったら女郎になろう。そう思いました」。パチリとスイッチが入った瞬間であったのだろうか。
こう聞くと、なにか弱々しい少年時代(?)に見えるが、「食いぶちは自力で稼ぐ」力は、負けてはいない。港に落ちたサンマやサバを拾ってカネに替え、中学生になれば線路際に落ちた石炭を集めて家計を助け、凍てつく早朝、親父の酒を一杯ひっかけ牛乳配達、新聞配達に飛び出す。腹が減れば、水商売の姉さんたちの家に上がり込んで、ご馳走になるなど、じつに逞しい。 であれば、高校に進んで、安穏であろうはずもない。戦時下の丸刈りの時代に、長髪に挑む。たちまち、教頭が「なんだその頭は!」といきなりバリカンを入れられ丸坊主に。「だから殴った。「なんだこの野郎!」よ。ケツまくったわよ」。ここで高校生活はあっけなく終わって、家を出る。昭和33年9月のことであり、こうして波乱に富む放浪生活の幕が開く(以下次回)。
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