2025年06月09,13,16,20日

6月9日・月曜日。曇り。沖縄、九州地方、早くも梅雨明け。史上、最速とか。今夏の暑さが危ぶまれる。

6月13日・金曜日。曇り時々晴れ。本日、イスラエルがイラン核施設を先制攻撃し、世界に衝撃が走る。イランの反撃は必至であろう。その規模次第では、中東情勢は別次元の危機に陥る。米はイスラエルへのコントロールを失ったか。その米自身の政治情勢が混沌とし、ウ露戦争の行方は知れず、中台の緊張は増している。くわえて地球規模での資源争奪戦がある。気候問題も不気味だ。かつて、2,3週間で終わるはずの戦争が第一次世界大戦の突破口となった。ささいな紛争が大戦につながる種はつきない。現下の世界の状況、危険極まりなし。

6月16日・月曜日。晴れ。梅雨寒の日々が、いきなり夏日。しかもこれ、一週間は続くと言う。半蔵門線の冷房は効きすぎで、悪寒すら覚え、降りればじめッとした暑さにクラクラする。生きながらの地獄責めに、往生要集の場面が浮かぶ。

6月20日・金曜日。晴れ/6月23日・月曜日。晴れ。前回の文章、後半を修正した。

承前。農地を利用した汚水浄化の方式は、原野の農地化とその肥沃化、農産物の増産を可能とし、同時に都市には良好な衛生環境をもたらすという点で、まさに画期的な構想であり、対策であった。しかしそこには、すでに見たように、伝染病や重金属類の汚水への混入といった問題点にくわえて、急速な都市化の拡大による広大な農地の消失という決定的な難問にも見舞われ、農地灌漑方式は結局、中間的な対策として、その後に開発された多様な浄化技術によって代替されざるを得なかった。

筆者がホープレヒト方式をここで紹介したのは、八潮の惨事に触発されたからであったが、それは彼の農地灌漑方式のゆえではない。そうではなくて、彼の積み木方式と言われた市街地の浄化方式に着目したからである。

これについてはすでに見たが、それは以下のように纏められよう。市街は幾つかの区域に分割され(ベルリン市は、12区域であった)、それぞれ独立した下水道システムが建設される。下水道は自然な流水を確保するため、分けられた区域のそれぞれの地形を十分生かした構造になっている。そして、域内の汚水は最後に一点に集められ、圧力管によって指定された農地へと送られる。これが積み木方と呼ばれるのは、各区域の下水システムが独立していながら、それらが一体となって市全域の排水機能を果たすからである。一つ一つバラバラの積木が寄せられて、一つのまとまった形(フィギュア)を生み出すのと同じである。

当方式の最大の狙いは、ホープレヒトが強調するように、市街に埋設される下水道線の最短化であった。その結果、建設費、維持費の低減といったメリットも見込まれている。では、こうした下水道思想から、何が言えようか。都市建設とその規模は、言うまでもなく、下水道システムのあり様によってのみ決定されるわけではない。しかしそれを無視して、ただ技術力を頼みに巨大都市を目指せば、今回のような八潮市のような事故は今後も免れない、と先ず言いたいのである。であれば、都市建設は積木方式が含意しているように、汚水の処理量、環境への負荷を考慮し、中規模の都市建設が相応しいのではないかということである。これは、現在、この国が直面している人口減少と大都市への一極集中による地方都市の疲弊に対する答えでもある。それは同時に、市域の、とりわけ上下水道のインフラ施設の維持管理の諸経費が今後の自治体財政を圧迫し、死活問題になってくると言う、近年とみに聞かれる警告にも対応している。

筆者のこうした提言は、まだ十分に練られたものでないことは、よく承知している。ただ、都市造りには、ここで見たように、下水問題も考慮した発想で進められることを期待したいのである。繰り返すが、都市の巨大化は、それを許す技術力をすでに持とうとも、抑制的でありたい。実際のところ、都市建設において、これまでこうした問題意識ががどれほど働いていたであろうか。恐らく、先にみた林官房長官の言にみるように、都市プランナーの意識にはそれほどではなかったのではないだろうか。

以上を踏まえてみると、筆者は、大平正芳内閣(昭和53~55年)のときに初めて閣議で政策課題として提示されたと言う、田園都市構想に注目し、これを支持したい。英国を故郷とする田園都市論の我が国への移植とそれなりの実践の歴史はここではおくとして、大平内閣の構想としては、「都市の持つ生産性と田園の豊かな自然、潤いのある人間関係を可能にする都市」(渡邊昭夫編『戦後日本の宰相たち』365頁。中公文庫・2024)社会の建設にあったと言う。大平氏の急逝により、ついに陽の目を見ることはなかったが、これが実現していれば、当時すでにビル街に埋め尽くされてきた巨大都市に歯止めがかかり、今少し豊かな自然に囲まれた都市社会への転換と、そして同時に、地方都市の活性化も臨まれ、その後のわが社会の発展史はまるで別物になっていたのではないかと惜しまれるのである(この項、終わり)。


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