2025年1月17日・金曜日。晴れ。現在(16;22)の温度、7度。深夜には1度辺りになるという。ただ、この冷え込みも来週一杯のことで、節分頃にはかなり緩む。これが筆者の見立て。それ以上に、今年の夏が不気味である。昨年の暑さは記録的であった、と過日の報道にあった。
1月20日・月曜日。曇り。前回の文章にやや手を入れた。時間をおいて読み直せば、どうしても不満が出る。それは分かっているのだが、少しでも早く配信を、との思いから、多少の不備に目をつむる。だが結局は、訂正、加筆の憂き目となる。お許しあれ。
謹賀新年。
松もとっくに取れ、今さらながらの挨拶に気も引けるが、これが本年最初の「手紙」であれば、まずはこうご挨拶させて頂こう。
こうなったには、丸々、当方の事情によるもので、年末の23日頃からか、左の脇腹から背中にかけて筋肉痛を覚え、気づけば左胸部から腹部にいたるまで、ヒリヒリした火傷でもしたような痛みが広がった。耐えがたいほどの激痛ではないが、かなりの痛みだ。これは皮膚の深部からではなく、表面に留まっているように感じられた。歩くとかなり痛く、寒いと辛い。風呂は良い。
先ず、今流行りの帯状疱疹を疑った。ただ、10日以上経っても発疹はなく、皮膚表面に異常はない。患部は、さわると痛いと思い、出来るだけ触れないようにしていたが、それでも時々さすってみると、それによる痛みの侵攻が生ずる訳でもない。老人性骨折もあり、これはただ咳こんだり、布団をかぶっただけでも、骨折することがあると聞かされた。ただ、歩いても、風呂に入っても、それらしい痛みはまったくない。
こんな思いと苦痛を抱えながら、年末年始は医者は休診で、ただ耐える他なしと思い定め、とくに正月は布団に潜り込んで、寝て過ごす。これは我がいつもの戦略だ(とこう書けば、なにかもっともらしいが、ただ医者に行くのが厄介なだけの話に過ぎない)。いよいよ耐えきれなくなるまで、ただ我慢の子(爺)を決め込む。それでも大晦日には、こんなことに負けてはならじと、寒夜を押して浅草寺に繰り出し、参詣の後、馴染みの食堂にて雑煮を食す。久しぶりに旨かったが、痛みも滲みる。だが、ザマア見やがれと、嗤ってやった。梶井基次郎が結核に弱った体を鞭打ち、夜中狂ったように彷徨したほどではないが、その気持ちは分かる。たしか啄木にもそんな気があった。彼もまた結核に侵された体をものともせず、貰ったばかりの給料をはたいて、友人と痛飲したのではなかったか。その後にくる病気からの容赦ない懲罰的痛苦を、彼らはどう受け取めたのだろう。「お前なんぞ怖くはない、ザマア見ろ」であったのか、それとも深い悔恨であったのか。
かくて松も明け、皮膚科を受診。医者は患部を診て、ただ一言。帯状疱疹にあらず。2週間たっても疱疹が見られない。肋間神経痛ではないか、と。その後、神経科を受診せず、いまだ正式の診断は出ないまま、勝手に肋間神経痛と言うことにして、今にいたる。人に言われ、良く効くと評判の鍼灸に先日行った。少し通うつもりだ。
こんな次第で、うずくまる様にして日を過ごし、本日ようやく出社に及ぶ。いまだ痛みは残るが、負けてはならじ。これが老いの一徹というものか。その結果、体がどうなろうと、今更大したことではあるまい。過日読んだ谷川俊太郎『からだに従う』(集英社文庫2024)にこんなのがあった。「この世とおさらばするのは寂しいだろうが、死んだら自分がどうなるのかという好奇心もある」(271頁)。これは我が心情にも沿うものである。
年改まり、はや半月余り。この短期間でも世間は馬鹿馬鹿しくも慌ただしい事件に事欠かない。今年こそ平和な年でありますようにと、祈るほか筆者には手立てもないが、それでも本欄で、「ソウか、そんな考えもあるか」と思って頂けるようなことが一つでも見つけられればとの思いで、筆ならず、キーを叩いてまいりたい。
改めまして、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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