11月18日・月曜日。晴れ。ほんの2日前、平穏な日常がいかに脆く、頼りないものかを突きつけられた。当日、我が家の荒れ放題になった庭の手入れに、身内の者たちが4人駆けつけ、午前中から忙しく立ち働いてくれたのだが、40絡みの甥が1mをこえる踏み台から飛び降りた。職人の彼からすれば、そんな跳躍は造作もないはずだったが、今回ばかりは目測を誤った。アスファルトの路面に両足で着地したが、踵から膝がしらに至る両足の複雑骨折の重傷を負った。1分前の平安は、突如暗転し、当人、家族の今後を思うと、私も暗澹たる思いに沈む。それにしても、平穏に一日が過ぎ、十年、二十年続くとなれば、それはまさに奇跡なのだと思い知る。
11月25日・月曜日。晴れ。
承前。前回は、とくに国家権力の非情、凶暴さについて強調したが、それでもこの問題に対する筆者の立場は、それほど悲観的でないどころか、希望さえ持っている。例えば、強権的と言われる国家―ロシア、中国、北朝鮮―と比べてみれば、我われの国の制度的な健全性は一目瞭然であろう。それを証しする一例として、この度の総選挙がある。裏金、統一教会問題にまみれた自民党は終始謝罪、反省そして抜本的政治改革を唱えて、地にひれ伏すがごときの選挙活動を余儀なくされたが、それでも国民の怒りはやまず、自公政権はついに過半数割れに追い込まれたのである。こんなことは、上記の三国においてはまず考えられない。そして、こうした結果が出たのは、公正な選挙、報道の自由と批判が保証され、それらが曲がりなりにも機能しているからだと判断したい。
以上が我が国の体制やそれを支える諸制度に対する筆者の基本的な対場であり、それに対する信頼は揺らいでいない。それを基にして、ここでの「日航123便」に関わる問題を考えたい。
たしかに、我が国においても、権力に対する監視、チェックが行き届かない場合、あるいはその露見が権力者の存続を危うくしかねないような不祥事に対しては、徹底した隠蔽、妨害、時に弾圧さえ行使されるであろうことは、すでに見てきたとおりである。権力とは、本来、そうしたものなのだろう。それに対する国民の側の対抗策は、ここでの事がらについて言えば、先ずは青山氏が取り組まれたように、事件全般の解明の努力に尽きる。その際に、氏も指摘されているように、圧倒的な権力と資力を持つ国や日航、報道(我われはNHKの不可解な対応を知っている)からの様々な妨害に抗して粘り強い努力を強いられる。次いで、氏も関わりを持った法廷闘争がこれに続く。ここにはまた、指弾されるべきこの国の司法及びその周辺の問題が浮かび上がるが(「真相を語る」210頁以下参照)、とくに「真相を知りたい」との一念で訴えを起こした原告者が被る長期にわたる痛苦には言葉もない。
大胆に言おう。「日航123便」問題に限って言えば、事の決着は、簡単である。相模湾に沈む同機の尾翼の引き上げと、日航本社に保管されていると言われるボイスレコーダーの全面開示によって全て明らかにされるのではないか。それを司法が阻止しているという。その壁を突破するのは、健全な報道による世論の喚起である。権力に都合の悪い事実の隠蔽は権力の増長を来し、ついには国民の福利厚生を破壊する。それに対しては、是非にも公文書の改ざんを阻止し、保管と公開を義務ずけ、違反に対しては厳罰に処する法律の施行による他はない。しかも事は緊急を要する。最近の官公庁による公文書の破棄は目に余るものがあるからだ。そして、最後に言いたい。定期的な政党間の政権交代である。前政権の検証を忖度なく行うには、これ以外にはあり得ないからである。そのためには、国防と外交を共通認識とした二大政党制への移行を本格的に目指すべきである。ここでは、この問題に足を踏み入れないが、ただ一言すれば、政権交代が恒常化すれば、与党は常に緊張感をもって政策に取り組み、度はずれた悪事には二の足を踏むのではないかと期待するからである(この項、終わり)。
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