2024年09月11,13日

9月11日・水曜日。晴れ。ただ暑い。
9月13日・金曜日。晴れ。異常な暑さが続く。

この所、腰痛に苦しむ。いちいちの起居の痛苦は言うに及ばず、咳の一つにも怯える始末。咳き込むと背中一面を槍でつつき回されるような激痛が走る。こんな久しぶりの懲罰を受けているが、当方、それがいかなる悪因によって蒙った悪果であるのか、いまだ不明だ。とは言え、今日までのわが所業を顧みれば、そのネタに困るような身ではなく、いずれその訳も自ずと判明するだろう。こんな思いに捉われるとは、筆者はいまだ平家物語の世界を引きずっているらしい。
たしかに、わが身の被る難儀は、身から出た錆、因果応報と諦めるにせよ、世の中を見回せば、こんな罰ではとても帳尻の合いそうもない悪事に首まで漬かりながら、何の咎めもないばかりか、栄華の日々を堪能し、あるいはそのまま逃げ切って鬼籍に入った御仁も多いように見える。許せん。閻魔よ、地獄の獄卒どもよ、抜かるな、そんな奴バラの一匹とて逃してはなるまいぞ。
と、マア、こんな事に思い至ったのも、森永卓郎氏が命懸けで書き、出版社は氏と共に滅ぼされる覚悟までして出版したという、『書いてはいけない』(フォレスト出版社)を通じて教えられた、青山透子『日航123便墜落』に関わる3冊の文庫本(「疑惑のはじまり」、「新事実」、「遺物は真相を語る」。いずれも河出文庫出版)に触発されたからである。
ここで上記3冊の紹介は、やり始めれば、内容上、とても手短にという分けにはいかず、止む無く省略したい。ただ、そのエッセンスだけでも知りたいとの読者には、森永氏の同書、3章を一読されたい。
筆者には、ただ御巣鷹山での日航機墜落とのみ記憶されていたこの事故は、1985年8月12日に発生し、今年で39年にもなる。乗員、乗客合わせて524名(幼児12名を含む)の内、4名の生存者を除く520名の犠牲者を出し、単独機としては史上最大の航空機事故であった。
その第一原因は機内のR5ドア(客室内の最後尾のドア)が爆破、破損し、機内の「気圧が下がり、吹き飛んだドアが水平尾翼や垂直板などを破壊、操縦不能に陥った」ことによる。では何故そんな事が起こったのか。1976年、同機は大阪空港での着陸の際、尻もち事故を起こし、その修理が十全でなかったからである。つまり、それは手抜きであった。修理は日本に派遣されたボーイング社の専門チームが行ったが、その際「各室と尾翼構造部分を遮蔽している与圧隔壁の修理に二列のリベットを打つべきところを一列に打ったままにとどめたこと」によって、隔壁の強度が弱化し、それが垂直尾翼を吹き飛ばす原因となった。次いで、この手抜き整備を見逃した日航および運輸省のずさんさも非難されなければならない(「疑惑のはじまり」228頁以下)。
こうした説明が、当時、各メディアを通じてなされ、筆者もそういうことかと得心し、今日まで来たのである。だが、実際はそうではなかったらしい。青山氏の著書は粘り強く、事故の経緯とその詳細を明らかにしていくが、そこから予想だにしない陰惨な諸事実が浮かび上がって来たのである(以下次回)。


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