2026年02月06,09日

2月6日・金曜日。晴れ。この一週間、寝たり起きたりの日々であった。インフルエンザか単なる風邪なのかは知らず(例によって、のたうち回るような苦しみでなければ、まず医者には行かないからで、それゆえ周りからはひどく叱られるのだが)、咳、痰、鼻汁に悩まされながら、ただ布団に蹲り、ろくな食事もとらず、ひたすら難儀の去るのを待つと言う、実に原始的な療養法、あるいは獣のような対応で、本日に至る。まだ、咳はかなり残っている。今冬の寒さは格別で、トランプはだから温暖化は詐欺だと相変わらずの能天気だが、そうではない。地域、地方により、逆に寒気が募るのも温暖化だとは、科学の弁である。

2月9日・月曜日。晴れ。昨日は衆院選の投票日であり、結果はご存じの通り、自民圧勝であった。これについての筆写の感想は、いずれ述べる機会があれば触れてみたいが、本日は割愛したい。

承前。江崎氏によれば、科学とは、既存の科学的知識の誤り、不十分な点が否定され、また是正されて「論理的にきちんと整合した形で、革新的な知識が加わっていくもの」であり、こうして旧い知識は解体され、新理論が誕生する。こう見れば、科学には「進歩」が組み込まれており、それゆえ科学は進歩せざるを得ない営みなのだ。「内在」とはそういうことであろう。

と言うことは、そうした革新的な知識が論理的、かつ整合した形で組み込めないような分野、領域では、進歩はおぼつか無いということになろうか。それはいかなる領域か。氏は言われる。「芸術や音楽も、革新的な「変貌」を遂げることがありますが、必ずしも進歩ではないでしょう」。まさにそうだ。

ここで筆者もまたマックス・ヴェーバーなる巨人の肩とは言わず、腰辺りにすがって遠望すれば、芸術表現は素材、表現形式、技術等において多様な変貌を遂げてきたにしても、それぞれの流儀で生み出された最高傑作の芸術的な価値は後世の傑作によって乗り越えられることはないだろう。紀元前100年頃に制作されたと言うミロのビーナス像、あるいは広隆寺の半跏思惟像の芸術的価値が、現代の作品によって毀損されることがないことを思えば、この間の事情は何となく理解されよう。

これは何を意味するのだろう。筆者にはしかとは答えられない問いではあるが、芸術的価値とは、どこかに頂点があって、それをこえたそれ以上の価値はない、あるいは人間にはそれを生み出す能力はない、そのような対象なのではないか。つまりここでは、既存の作品に「革新的な」芸術的価値が加算され、累積的に価値が高まり、無限に進歩するといった構造にはないと言いたいのである。

こうした事例は他にも多々あろうが、たとえばイエスの言葉はどうか。新約聖書に記された彼の言葉は、以降多様に解釈され、深められ、その点で進歩してきたと言えるかもしれない。その間に積み上げられた神学体系は巨大で、筆者にはその扉すら開けられもしないほどだが、しかしその集積がどれほであっても、それ自体はイエスの遺した言葉(TESTAMENT:遺言・契約)を離れてはあり得ない。しかも、それがキリスト教と言う限り、その集積から彼を越えて、彼を否定した新たな価値を持った教えが樹立されると言うことはない。むしろ話は逆で、イエスへの理解が深まるほどに、その言葉の真理性はさらに明らかとなると言う。スピノザ(1632-77)は言っている。キリストの「物語の最上の部分は・・・主に道徳的な教訓から成り立っている。この部分の内容は誰もが自然の光によって簡単に理解できるのである」(吉田量彦訳『神学・政治論』(下)57頁。光文社2014)。

科学的進歩は先行の業績を踏まえながら、それを否定しつつ真理に向かって侵攻し、これを進歩と言ったが、これにたいして上に事例はそれとは反対の方向をさしている。研究の深まりによって、始祖の深さ、真理性がいよいよ明らかになると言うからである(同じことは、孔子や仏陀についても言えるのだろう)(以下次回)。


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