2025年07月14,18日

7月14日・月曜日。晴れ。首都圏に迫った台風は太平洋上にそれ、混乱回避す。その余波であろう、昨夜は割合涼しく過ごせた。禍福はあざなえる縄の如し、とはよくぞ言った。

7月18日・金曜日。晴れ。本日、梅雨明け。

昨日(7/13)の朝日朝刊トップに、この参院選で温暖化問題を取り上げた政党はない、との記事を読む。その論調を含めて、まるで前回のわがブログの後追いのようにも見えるのはいいとして、国政を預かる各党は、一体、この問題をどう考え、いかなる政策を用意しているのか、心底問いたい。温暖化は、筆者にとって、安全保障や人口問題及びそれに起因する労働力、社会保障その他に関わる問題と同等、あるいはそれ以上の重要な問題だと考えており、とてもでないが「関心はあるが、選挙に馴染まない」などと言って済まされることではないからだ。

たしかに、温暖化問題を政策綱領の第一に取り上げ、選挙に打って出ても、何を寝ぼけたことをいてるんだと、一蹴されるであろうことは目に見えている。だがそんなことで怯むようなら、政治家はやめた方がよい。そんな御仁には、その資質、能力にまるで欠けるからだ。  

わが思うに、己が言葉を唯一の武器として、まったくの無から理想の世界を練り上げ、選挙民に訴え、説得し、その実現に向けて情熱を尽くすのが政治家ではないのか。これをヴェーバーは、心情倫理と言ったが、その意味は理想の実現の成否を問わず、まずは全力でそれに取り組む姿勢、心情のことである。次いで、その理想の実現のために、取りうる様々な手段や対策を冷静に比較衡量して、そこからもっとも可能性のある、合理的なものを選択し、決断する。その際、場合によっては、悪魔とも手を握ることも恐れないとも言うが、こうした行動を責任倫理といった。政治家とは、この二つの行動倫理を併せ持つ人間である。とすれば、彼には理想に掛ける情熱、国民に訴える説得力、そしてことに対する結果責任を負う覚悟とが求められているのであろう(『職業としての政治』より)。

こうした人物像の反対に位置するのは、選挙に受かることこそ大事で、国民のウケのよさそうなことばかりを語る、迎合的な政治家像(これを政治屋と言う)であろう。もとより彼には、語るべき理想は何もなく、それにかける情熱もない。自分の説いた政策が、その結果、たとえば財政破綻、公害など、国や国民生活に深甚の被害をもたらそうと関心はなく、当然それに対する責任も感じはしない。選挙民が望んだことをしたまでのことで、自分にはその責任はないという分けである。

だが、どうであろう。身命を賭して打ち込めるような仕事をせずして、生のいかなる充実が得られるのだろうか。自分の仕事に対する誇り、あるいは無残な失敗にまみれようとも、精一杯やった、悔いなしとの思い、そうした心情、願いはいかなる職にある人たちにも等しく持たれる思いではないだろうか。人々の日一日は、確かに損得の明け暮れに違いないが、しかしその中にも「今日は良かった。あんな笑顔に、感謝に出会えた」といった喜びと、充足に励まされてもいるのではないか。ましてや政治家たる者、法を作り、公権力を動かし、時にはおおくの国民の生命、財産を危機に晒す決断を迫られる。そうした存在が、どこかの教会に取り入り、裏金づくりに心血を注いで、事が露見すれば、全て部下に押し付けて愧じない。 だが、国民の政治意識、民度をこえた、立派な政治家は持てない、との言葉もある。とすれば、選ばれた政治家の良否は、結局、選んだ我われ国民の責任である。無関心や丸投げ、しがらみ、惰性に流れた選挙をすれば、その報いは必ず負わされる、と覚悟しなければならない。と、マア、迫る参議院選挙を前にして、わが心を点検した次第である(この項、終わり)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です