2月17日・月曜日。曇り時々晴れ。前回の文章、一部加筆した。
現在、少数与党をバックとした石破政権は、何事も野党との丁寧な協議、熟議の上、その合意を取り付けなければ、自らの政策は一つたりとも実現できない。意思決定の遅滞と言えばそれまでだが、それは恐れるほどの悪事ではない。来年度の政府予算案の修正は、その最たるものだ。諸外国ではごく当たり前のそうした修正は、自民1強時代にはまるで考えられないことであった。これまでは政権党内部で策定され、審議の過程で浮き上がる疑問も何もかもそのままに、いよいよとなれば数の力で押し通した予算案が、この度は新たな視点から修正される。これは間違いなく、民意に即したものになる、と筆者は信ずる(「高額療養費制度の限度額の引き上げ」案の一部見直しは、その一例である)。国民はその意味するところを熟考する必要があるのではないか。
2月21日・金曜日。晴れ。昨年末(11/16)、我が家で大怪我を負った甥が、3カ月の入院を経て、明日漸く退院の運びとなった。まだ杖が手放せないらしいが、先ずは回復を素直に喜びたい。
承前。前回は、この度の下水道陥没事故は「街づくりに始まり、ひいてはこの国のあり様を一から見直そうとするほどの奥深い問題」にふれるような事案であると言った。以下、その意味するところを一、二記して、この項を終えたい。
まず指摘すべきことは、120㎞にも及ぶ長大な下水道建設の在り方である。一たび建設された下水道は一続きの体系として完結し、その後の住民数の趨勢、工場等の増減に応じて、柔軟に伸縮(特に縮小)して作り直すことは難しく、硬直的な体系だと言えよう。だから、社会経済が想定を超えた成長過程にある下水道需要は、常に下水道の処理能力を超えたものになり、一転、衰退過程に入った社会の下水道は、その需要にたいして大きすぎることになる。
後者のこの問題は、とくに深刻である。例えばこうだ。現在あちこちで見られる、劇的な人口減少に喘ぐ市町村を抱えた下水道需要は、一気に減少することがあっても、それをきちんと保全して下流に繋いでいかなければ、下水道機能は果たせない。長大になるほど、その危険性は高まるばかりか、維持費用は膨大になり、一自治体で賄うことは出来ないだろう。将来的に上下水道の維持管理が自治体の最大の財政負担になるとは、つとに指摘されていることであり、筆者もこれについてはすでに社会環境学会で報告したところである(その要旨は本欄でも掲載されている)。
建設された下水道の耐用年数は50年を目安としているようである。八潮の場合、42年でまだ寿命はあったと行政は見ていたようであるが、それは承服できない。50年前に建設され始めた本下水道幹線は、関係する地域の社会経済発展と共に増大する下水道需要に応じて支線を繋ぎ、恐らく継ぎはぎしながら現状のもへと成長してきたのであろう。その結果が全長120㎞、直径4.75mの巨大さに行き着いたのではないか。
だがその間の市域圏の発展は建設ラッシュやら交通量の増大を来すが、そうした巨大工事や車輛数量及び積載重量の指数関数的な増加もまた、下水道管に対して間断のない影響を及ぼし続けたに違いない。さらには、50年前の建設時には思いもしない、その後に頻発する集中豪雨といった過酷な気候変動が地中環境に及ぼす甚大な影響もこれにくわわる。要するに、平常的な環境下で算定された道管の耐用年数は、一つの目安に過ぎず、筆者の見る所、すでに寿命は尽きていた。むしろ42年間、よくぞ保ったと言いたい。ただ、費用面から見れば、まだ使える、と行政は言いたいのだろうが、人命にかかわる深刻な事故が生じたと言う冷厳な事実をこそ見据えるべきである。では、以上を基に、今後どのような対応、対策が考えられるであろうか(以下次回)。
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