1月27日・月曜日。曇り。わが肋間神経痛は、鍼灸の効果か、ただ日数がたったからなのか、かなり楽になって来た。それにしても古傷とは恐ろしいと、改めて思う。もう64年前(18歳)になるか、当方、肋膜炎にかかり、それをこじらせ膿胸へと進行し、左肺をかなり痛めたらしい。当時はかなりの難病であったが、ともあれ完治したことになっている。だが、老年になって、それが障って来たのではないか、と鍼灸の先生に言われ、ハッとした。思い返せば、これまで非常な疲労の折に、患部であった背中辺りに筋肉痛とは別の痛みが張り付き、かなり苦しむことが度々あったからである。これを背中のコリだと勝手に決めて、医者にもいかず、ただサロンパスか何かを貼ってやり過ごしてきたのだが、とんでもない無謀を仕出かしていたのかもしれない。無知の気軽さと言ってしまえばそれまでだが、こんな養生法(?)は他人には勧められない、とは思う。
1月31日・金曜日。晴れ。八潮市での道路陥没のニュースに、列島は衝撃を受けた。まずは、地中に取り込まれたトラック運転手の救出が急務である。そして、この事故の恐ろしさは、地震、テロ等の何か特別の変事によって生じたのではなく、平穏な生活の最中、しかも安心のよすがとなっている大地の奥深くから、音もなく突如発生したところにあるだろう。しかもそれは、さらなる陥没をよび、その収束が見通せない。これによる市民生活の侵害は計り知れない。同時に、こうした事故は日本中の大都市圏で今後頻発していくことだろう。老人大国に向かっている我が国に耐えられるであろうか。
なお、下水道問題については、筆者にとって無縁な問題では無く、いずれ改めてここで論じてみたい。
今年は阪神・淡路大震災(1995・1/17・M7.3)から数えて30年という節目の年であるせいか、その後の被災地の復興のあり様、震災に対する備え、教訓等に関する報道を多く目にする。しかも、その後東日本大震災(2011・3/11・M9.0)、熊本地震(2016・M7.3)、胆振東部地震(2018・9/6・M6.7)、近くは能登半島地震(2024・1/1・M7.6)と踵を接するように列島は大震災に見舞われ、さらに現在、南海トラフ「巨大地震」の発生の確率が高まっているとの報道(1/15。政府地震調査委員会による発表)に接するに至っては、何とも言いようのない不安を覚える。
それとは別に、近年の温暖化が異常気象と巨大台風を頻発させ、列島中にこれまで例を見ない風水害をもたらしていることは、今さら言うまでもない。くわえて、我が国では年々出生数が減少し、少子高齢化の勢いはさらに強まっている。このまま行けば、我われは間違いなく老人国家の住人となる。その結果、国土の保全、国力の維持はおぼつか無くなるだろう。山河や平地、あるいは海岸線は人手によって常に整備されていなければ、脆弱になり、崩壊しやすく、また人間社会への自然の侵襲は容赦ないものとなる。その事態が如何なるものかは、福島県での住民の帰還困難な地域での猪他の鳥獣の繫殖力や植物の増勢からも、それと察することが出来るだろう。
それに加えて、本日上で見たような八潮市で突如発生した道路陥没にみる、市民生活にもっとも密接な社会インフラ施設の劣化に対する維持管理、およびその更新の問題がある。政治とは本来そうした問題に日々向き合い、国民生活の安寧を守ることにこそ心血を注ぐべきことと考えるが、国政はこれらに対してどこまで本気になって関わって来たか。夫婦別姓は良いの悪いのと言った、どうでもいいことにうつつを抜かし(その裏で、裏金問題に情熱を注ぐ、そんな議員先生方に我われの人生に介入するような権利や資格はまったくない)、経済発展、オリンピック、大阪万博(能登復興が脇に置かれたような取り組み)、半導体等の華のある、票になりそうなことには赤字予算を組んでも、ふんだんにカネを着けながら、上記のような問題に対してはどうであったか。十分な予算と人員を確保していれば、こんなことにはならなかったはずである。
筆者はこの国の先行きに対し、こんな漠とした不満、不安を感じていたところ、先ごろ石破首相の施政方針演説にふれ、その現状認識から地方から列島改造を図ろうとする施策、「防災・治安」(防災庁の設置)の方針には、私なりに共感するところが多々あった。ただ、首相の意思やその発言がしばしば反故にされ、あるいは変更されるのを目にしてきた一国民としては、どこまで実行に移されるかは覚束ない。また党内基盤の問題もあって、気の毒な面もあるが、誰あろう、ご本人が自ら首相に打って出、目出度くその座に就いたのであれば、身命を賭して思う理想の実現に一歩でも近づいて貰いたい。これは筆者からのエールである(この項、終わり)。
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