12月16日・月曜日。晴れ。
12月23日・月曜日。晴れ。冬至を過ぎて2日。かがめた身を解き放て。こんな気分は、先日読んだ谷川俊太郎『二十億光年の孤独』(集英社文庫・2223年)に触発されたからか。と言って、当方には、詩の多くが呪文のような連なりで、我には詩心なし、と思い知った。本書を初見で深く共感できる諸氏には言葉もない。三好達治にいたっては、最高級の賛辞すら惜しまなかった詩集であるというのに。「ああこの若者は/冬のさなかに永らく待たれたものとして/突忽とはるかな国からやってきた」と。しかもこの若者は、この詩によって、たった一人で現代詩のあり様を叩き壊したのだそうだ(朝日新聞12/21・夕)。
12月27日・金曜日。晴れ。かくて今年も暮れなん。
この年末、将棋の島 朗九段と久しぶりに電話で話をした。「もう八十一歳になりました」と漏らしたわが言葉に、すかさず「盤寿(将棋盤のマス目が九×九=八十一にちなむ)ですね。おめでとうございます」と返された。そうか、オレは今年、盤寿であったか、すっかり忘れていた。あれほど将棋、将棋と言ってきた自分が、わが盤寿を忘れるとは。それだけ将棋への情熱も失せてきたのかと思うと、やや情けない。
本日(12/16)、師走の中日。2日前は討ち入りであった。来週は冬至を迎える。天上では太陽の死と再生のドラマが音もなく繰り広げられる。その日近くにイエスが誕生したという物語は、福音(良きおとずれ)を説く教えにとって、誠にふさわしい話だ。この日を境に、陽の光は日毎に強まり、長くなり、雪の中に押し込められていたすべての生命があふれ出る。これに誘われるようにして、戸外に出てきた人びとは、先ずは天を仰ぎ、陽の再生を神に感謝し、向こう一年の平穏と豊かな実りを祈ったことだろう。人々にとって、これ以上の良きおとずれはなかったに違いない。
だが、キリスト教の説く福音とはそうではない。神は、我われ人間が犯した罪を償わせ、我われを永遠の命にあずからせるために、「生贄の子羊」として、掛け替えのない神ご自身の一人子を我らのもとに遣わされた。それが、今日です、「メリークリスマス」(クリスマスおめでとう)。神はそれほどに人間を愛し給うた方であり、こうして我われは罪を解かれ、永遠の救いが得られるのです。誠の救い主・イエスの誕生、それを告げ知らせることが福音の意味だと教えられている。
キリスト者にとっては、何にも代えがたい教えではあろうが、筆者には今にいたるも、何かおさまりが付かない。恐らく、かの詩心への感応が弱いと同じように、この教えに対して、私には何かが欠落しているのだろう。むしろ、背筋を伸ばして天を仰ぎ、そして頭を深くし、これからの一年の無事を祈る。こうして、ともすれば厳しく、切ない日々の生活を前にして、人々がそれに挫けず、立ち向かえる力を得られる。この様な祈りこそ、私にはより切実であり、身につまされる、という思いが強く、腑に落ちるのはどうしようもない。
こう辿ってみると、これは日本人が昔から習いとしてきた、正月元旦、一同うち揃って陽に向かい、柏手を打ち、一年の無事息災を祈る姿に近い。そうか、自分はこれまで、多少は西洋の小説やら、学問あるいは生活ぶりにも触れることもあった。そこでは何よりも合理性、個人の自立の尊さを学び、そこに憧れを持った。そのことに悔いはなく、また我われ日本人の島国根性やら、強きになびく事大主義が大嫌いだが(と言って、私自身もその一人なのだが)、我が国の伝統、独特の美意識、立ち居振る舞いの優雅さ、それらと共にそうした我われの生活を支える国土の景観美は何としても保持してもらいたいと強く望んでいるのである。こうして、私と言うものは、結局、昔からこの国を形づくり、育んできた多くの日本人と何ら変わるものではなかったのだと、大変な遠回りをして漸く、己が本性に気づいた年末であった。
今年最後の「手紙」である。何かカッコよく締めたいものとキーを打ち始めているうちに、こんな文章になってしまった。とても掉尾を飾るに相応しいものとは思えぬが、これがわが心情、実力であれば、気取ってもどうにもならない。ともあれ、これをもって本年の締めとさせていただきます。一年間のご愛読、有り難うございました。来年も宜しくお願いいたします。
皆さま、良い年をお迎えください。
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