12月2日・月曜日。晴れ。本日は予定を変更し、近頃当方の身の回りに起こるいくつかの凶事について報告させて頂こう。
先月の中旬より、我が運気は衰運の一途をたどって、このまま年越しになるかと、何か空恐ろしくなるような事態に陥る。その一は前回触れた甥の大事故(これは当初の見込みよりは軽く済み、手術は免れ、全治2か月ほどと聞いている。少々ホッとしたが、それで済む話でもない。)であったが、この事故の直後、我が家の風呂の機能が損壊し、シャワー、その他の温水は出るものの、湯船の給湯が止まった。早速、積水ハイム(オール電化の我が家は10年前、当社から購入する)顧客センターに繋いで、施工業者の修理を受けた。工事代金は締めて8.5万円也。その晩より風呂には入れたが、先月末、突如、風呂張り、給湯がストップし、栓は捻れど、出るは冷水ばかりとなった。あの修理は何だたんだ。カネ返せ、との怒りもわいたが、それで温水が出る分けもなく、止む無くセンターに多少の不満と手立てを訴えた。業者に問い合わせたセンターからの回答は、にべもない。前回と今回の故障個所はまったく別系統のもので、前回これを予見することは不可能であった、と。
まるで、医療過誤の際に聞かされるような、こんな言い訳に、承服できる分けもないが、寒気の募る夜々を、孫共ども風呂にも浸からず、不潔に過ごす分けにもいかず、電気製品の寿命は10年が相場だとの言葉に押しつぶされて、止む無く機械の一式更新を決意した。当方にとってはかなりの高額である。一瞬、ウクライナの諸君はもっと極寒の、しかも長期に及んで、風呂はおろか、命を的にした生活を余儀なくされているのだ。それに比すれば、わが身の幸せを思うべし。軟弱なり、耐えよ、との叱咤の声がわが耳朶に響いたが、そうした抵抗も高額の出費を惜しむゆえのことではないのか、との我が浅ましさを見据えて、漸くこの決断に至ったと言うのが、正直なところであろう。
かくて、機械更新の契約はなった。しかし驚くことに、その器具一式の納入日が定かでないという。工事の職人の手配は済んだようだが、肝心のブツがなければ、始まらない。ヘタをすれば年を越す。経済学は教えている。自由主義的経済では、市場での価格を通じて求める物は、欲しいだけ、常に購入できる、と。この教えは嘘だったのか。それとも我われの社会は、今や経済も政治も、あるいは社会全般が少しずつ歪み、そして狂ってきているのであろうか。 さて、我が悩みはこれに尽きない。さらに大きな問題がわが身に襲い掛かるような気配を感ずるのである。それは単なるわが妄想、杞憂に過ぎないかも知れないし、ひたすらそう願うしかないが、それは今ここでは明かせない(この項、終わり)。
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