8月26日・月曜日。晴れ。厳しい暑さが続く。ただ、夜半の風に秋の涼味を感ずる一瞬あり。いよいよ秋口。
9月2日・月曜日。晴れ。残暑の厳しさは、とても長月のそれとは思えぬ。酩酊台風、ようやく消滅。列島の被害は尋常でなく、しかもこれが今後も続くとなると、逃げ場もない。くわえて南海トラフ地震の恐怖が迫る。旧約の預言者たちなら、「イスラエルよ、悔い改めよ」と呼ばわるに違いない。
これまで長々と関わってきたこの話を終えるときとなったが、その前に一点、気になる問題、つまり因果応報と因果関係について触れておきたい。後者は、簡単に言えば(正確に論ずるには、筆者の手に余る問題である)、ある原因はある結果を生じさせるという関係であり、その関係が定型的に常に認められる場合に因果法則の言葉が使われる。これに対して、前者は人の行為の善悪に応じて、善果・悪果の結果を招くというものである。ここでは、いずれも原因に応じた結果を引き起こすと言っていることから、類似した主張のように見えるが、両者は全く異なる概念であると言っておきたい。
たとえば水は、一気圧の時、100度で沸騰し、0度で氷結する。これは水(H2O)の特性によるものであり、客観的な事象である。そうした事象間の関係を捉え、数量化して、法則性を認識しようとする。この営みを科学するといい、このように、諸事象の客観的な認識を目指すという点で、自然科学、社会科学も変わりはない。
これに対して、因果応報は人間の心意に発する善悪に応じて、その結果が当の人間に降りかかると見なすものである。だからこそ、ひとは後の悪果を免れようとすれば、己の心を律し、そのために「菩薩十善戒」の修行に励むのであろう。では誰がそうした結果を与えるのか。それは神からの賞罰、すなわち果報・神罰と言われるが、仏教では神を認めない。筆者にはよく分からないことながら、この因果応報の定めは、宇宙の開闢以来、そこに埋め込まれた法あるいは掟であり、これこそ仏法と言ったものなのだろうと考えたい。とすれば、これは上で見たような、客観的に検証されるような認識ではない。
事実、平家滅亡の物語は、清盛はじめ一門の驕り高ぶる心意がもとになった因果応報の歴史であって、そこでは平家の繫栄や衰亡の経済的、政治的な諸条件や事実関係への関心はまるでない。それ故それは時系列的な記述ではあっても、歴史学的認識にはなり得ない。
最後にもう一点。平家物語では実に夥しい数の人間が乱舞し、入り組んだ悲喜劇を展開する。その多くは一場限りの舞台ながら、しかしそこに登場した役者たちは、たとえば那須与一のように、いずれも精一杯の光芒を放つ。これも物語の魅力の一つであろう。ここではその一例として安徳(八歳)が祖母に抱かれて入水する場面を、あえて原文で掲げてこの主題を終えることにしたい(清盛の最後の場面も印象深い一場である)。
事は決し、最早逃れる術はないと覚悟した二位殿(清盛の妻、時子)は敵方の縄目の恥辱を受けまいと、入水を覚悟する。いそぎ神璽、宝剣を身にまとい、孫を胸にひしと抱きしめ、船端に立つ。安徳驚いて
「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せければ、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさえて申されけるは、
「君はいまだしろしめされさぶらはずや、先世の十全戒行の御力によっていま万乗の主と生れさせ給えども、悪縁にひかれて、御運すでに突きさせ給ひぬ。まづ東にむかわせ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、西にむかわせ給ひて御念仏さぶらふべし。この国は粟散辺地(ぞくさんへんじ)とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」
と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結わせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあわせ、まず東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ(前掲書『平家物語』四「先帝身投」363-4頁)。
読みにくいことを承知の上で、原文を引いたが、そのリズムを味わっていただけたら幸いである。なお、「粟散辺地」とは、インド、中国の大陸を中心とすれば、日本は辺鄙で遠隔の地にある粟粒を散らしたような小国にすぎぬという意味、と「語釈」にある(この項、終わり)。
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