8月19日・月曜日。晴れ。炎暑。無言のまま、ただうな垂れるのみ。
承前。以上、筆者がこの物語を辿ってきたのは、そこでうごめく人びとの己をこえた存在に対する恐れ、畏怖を、我われもまた共有できればとの思いからであった。こうした存在を神あるいは仏、運命、宿命ほかどう呼ぼうと、それぞれの自由だが、そうしたものへの帰依こそが、今の時代にはとりわけ必要なのではないかと思うからである。他者に対して、あれほどに傲岸不遜であった清盛ですら、神仏の前では謙虚にならざるをえなかった。それ故、そこにこえることの出来ない制御があった。それをこえれば、清盛とて重罰をもって打ち据えられるからである。それを知ればこそ、徳子は静穏な生活に戻ることができたのであった。こうして人びとはある諦念の中で、しかもそれに自足して生を送る術を会得できたのだと思う。
それに引き換え、現在の我われは、何に対して謙虚になりうるであろう。科学技術によって全てをなしうるという、傲然とした生き様は、まるで全能の神のごとき振る舞いである。その時ひとは、眼前の困難をただ障害、邪魔とし、技術によってこれを克服、支配しようとしてきた。科学技術はこうして進歩を重ね、現在にいたる。だがその結果はどうか。いまや地球は沸騰し、その全生命の存続が危うくされている。このまま戦争、自然破壊、温暖化が進めば、結末は目に見えている。
この根源を筆者はユダヤ、キリスト教に根差す西洋的自然観にあるとみる。創世記(1章28~31節)では、神に似せて造られたひとは、それゆえ地上の動植物、資源のすべてを利用し、支配する権能を与えられた。近世に至り、F・ベーコン(1561~1626)がこれをさらに進めて、自然についての正しい知識はそれを支配する力(「知は力なり」)だと明言し、経験主義に基づく近代科学の基礎を築いて、現在への道を整えたからである。
かくて、西洋人にとって自然は支配し、利用する対象ではあっても、人もまたその一部であり、我われを包みこむような存在、だからかけがえのない存在としては認識されてこなかった。あるいは、そうした観念は希薄か主流とはならなかった(私はここで北欧の環境論を言っている)。だが、人類が突きつけられている現在の難問は、そうした科学技術によって解決できるような段階をこえてしまった。確かに、西洋の科学知が人類にもたらした恩恵は無限であり、それは論ずるまでもないが、それは今や限界に達した。根本的な思考の転換が必須であり、我われを導く新たな物語の誕生が待たれるのではないか(以下次回)。
コメントを残す