2024年08月05,14日

8月5日・月曜日。曇りのち晴れ。気持ちを萎えさせる湿気と生暖かい風が纏いつく。前回の文章に「六道」世界を加筆し、迷妄の生をさまよう人の哀れをやや明確にしたつもりである。

8月14日・水曜日。首都圏に迫る台風の先兵か、粘り気のある温風とゲリラ豪雨の襲来を受ける。

承前。上記の因果応報論は、物語の中でどう貫かれたか。この点ににふれて、そろそろこの話にケリをつけたい。以下の一節は物語末尾に掲げられた建礼門院(清盛の次女徳子、高倉天皇の中宮(皇后と同格の妃)にして安徳天皇の母)の述懐(著者訳文より)である。

「このようなことになったのは、まったく、入道相国清盛が天下を思うがままに支配して、上は天皇を恐れず、下は人民を顧みないで、死罪、流刑を勝手気ままに行い、世間も人もはばからず権力を振るわれたためである。父祖の罪業が子孫に報いるということは、全く疑いないと思われた」(灌頂巻)(前掲書『平家物語』四、751頁)。

この時彼女は、京都大原の草深い寂光院に住まい、二人の尼と共に滅び去った一門の供養と成仏をひたすらに祈る日々であった。荒れ果てた庵のさまは、ようやく探し当て、行幸する後白河法皇一行が思わず息をのみ、かつて多くの女官や高位高官にかしずかれた宮中の栄華の時代に比べれば、その落差はあまりに哀れであった。

ここに至るまでに、彼女は平家一門の破滅と敗者の嘆き、哀れをことごとく見なければならなかった。源氏に都を追われ、多くの裏切りに会い、平家に恩義のある西国に逃れたが、その土地の豪族からは追い払われ、船を宿りとする海上生活を強いられる。遂に、平家一門、壇ノ浦の藻屑となる。子の安徳は祖母(徳子の母)に抱かれて入水し、徳子も身を投げるも、源氏の船に引き上げられて、生き恥を晒しながら、都に送られてきたのであった。その揚げ句、彼女徳子は生き残った平氏の主立つ残党がことごとく斬首されるその様を見なければならならなかった。

これらは全て、父祖・清盛の罪業が招いた報いであり、誰を責めるいわれもない。徳子はこれを深く悟った。そこには彼女自身のかつての驕り、得意に対する悔悟の思いもあったに違いない。そして、彼女の耳元にも、琵琶の音が届く。「盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」(以下次回)。


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