7月26日・金曜日。晴れ。連日、体温をこえた熱暑日が続く。それが地球全体のことと聞けば、事の深刻さは笑い事ではない。プールに入って、熱中症にかかるとは、最近知った。道路のあちこちにミストの装置をつけよと、識者らしき人が言っていたが、そんなことはその場限りで、機械の排熱が温度を上げる。根本的な対策を取らなければならない。個人、自治体、国のそれぞれができることを為し、それを一体となって進めることだ。手遅れになる前に。
8月2日・金曜日。晴れ。この2日ほど、森永卓郎『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』(三五館シンシャ2024)を読み、強い衝撃と底知れぬ恐怖をもった。特に3章「日航123便はなぜ墜落したか」は、政府、自衛隊、警察、司法、大手メディアの大悪、不正義を突きつけて止まない。著者は殺されるのを覚悟で書き、出版社は多方面からのあらゆる弾圧を承知で出版したという。多くの出版社から拒否された揚げ句、本書はようやく日の目を見たという。民主主義社会と言われるこの国にも、権威主義的国家と同類の恐ろしい闇が潜む。
承前。先に仏教思想と言ったが、それだけでは間口が広すぎて、筆者には扱えるものではない。ただこれを平家物語に即していえば、一つの因果応報論だと言えよう。自分自身、あるいは先祖が前世、過去になした行状の善悪に応じて、その報いを必ず受けるという教えである。では、その裁きを誰が決め、実行するのか。これは、普通、神罰と言われるが、神ではない。仏教には一神教的な神はいないのである。
ここが、難しい。仏教説話には悲嘆にくれる善男善女たちが神仏に助けられる話は多く、各種の曼荼羅にはあまたの仏が配置されている。源信の描く地獄では、閻魔の指示を受けた多くの鬼どもが、亡者どもをありとあらゆる責め具を用いて、果てしもない拷問にふける。そこに、人間の深奥に潜むサディズムの喜びを見る解釈もあるが(加須屋誠『地獄めぐり』講談社現代新書2019)、ともあれこれらは、普通、神仏の働きとして理解されているのではないか。権現とは、仏菩薩が民の困窮を救うために仮の姿を取って現れたものであり、それが日本の神の姿を取って現れると本地垂迹の説となる。ちなみに、天照大御神は大日如来の化身であるらしい。
にも拘らず、仏教では人間界に関わる神仏はおらず、であれば因果応報は神仏の介入ではない別の働きだとみる。一言で言えば、我われの言動、心意に宿る「善因・悪因」が結果として「善果・悪果」をもたらし、その因果の連鎖が未来永劫に続く。つまり人とは、騒擾と不安にまみれた世に生まれ落ち、また死に変わるのであり、この意味で死する存在ではない。そうして前世の生き様が次の生のあり様を決定するという。これが輪廻(カルマ・業)である。この永遠の輪廻の轍を脱して、完全な自由と静寂の境地に至る。これが究極の救い、すなわち涅槃(ねはん)に入ることであり、解脱とはそういうことらしい。
こう見ると、人は地獄の苦界を免れようとすれば、まずは自身の言動を慎むことが第一となろう。そのために真言宗では、「菩薩十善戒」の教えを特に重んずる。故えなき殺生を避け、盗まず、邪淫にふけらず、噓・世辞・悪口を言わず、二枚舌を使わず、貪欲・怒りを遠ざけ、不邪見(誤った見方をしない)の十の戒めがそれである(柳田光弘「空海生誕1250年の高野山を訪れて」『社会環境フォーラム21』28号)。これに従えば、人はまずは己の言動、心意の内に宿る悪因を排除し、自らの身に悪果=不幸が襲うことをを免れるに違いない(以下次回)。
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