6月21日・金曜日。雨。本日、梅雨入り。例年より2週間ほど遅れた入りである。この遅れが気候的にどんな意味を持つのか、当方には測りがたいが、気にはなる。
6月24日・月曜日。晴れ。熱暑、列島を覆う。なお、7月半ばまで、別件の所用のため、本欄休載とさせていただく。
『平家物語』は単なる軍記物語ではない。夥しい数の、しかも多様な登場人物を見るだけでも、それは分かる。彼らによって様々な物語が織りなされるのである。その内ここでは、台頭する武士階層と天皇、法皇を含む貴族層との対立抗争について、少々、取り上げてみたい。
保元の乱(1156)で平清盛、源義朝が後白河天皇に味方し、勝利することで、武士が政治中枢の舞台に登場したとは教科書の教える所だ。3年後、平治の乱(1159)に清盛が義朝を討ってその足場を築く。その後の清盛が政治権力を掌握する過程は凄まじい。それまでの仕来り規則を無視した一門の人々の出世、昇進はもとより、最後は娘徳子(とくし)(後の建礼門院)を高倉天皇の皇后にすえ、その皇子・言仁(ときひと)を僅か3歳にして安徳天皇として即位させる(1180)。かくて清盛は天皇の外戚祖父となるが、それは清盛、絶頂の時であった。この間、わずかに20年の歳月に過ぎなかった。「平家にあらずんば人にあらず」(平時忠)の言葉は、こうした内実を持っていたのである。
とすれば、天皇、法皇を中心とする貴族層との政治抗争が苛烈を極めるのも当然である。そこに、宗教勢力の闘争がくわわる。比叡山(天台宗)、三井寺(天台寺門宗総本山)、奈良の興福寺(法相宗大本山。叡山の北嶺に対し南都と称する)の政治、武力は時に天皇の威令を押し返すほどであった。これらが互いに争いながら、世俗権力に対しても敢然と戦う。そうした情勢の中、歯止めの利かない平家に対し、特に法皇・後白河は主立つ貴族と陰謀を練り、対抗しうる源家を掘り起こし、「院宣」(いんぜん)を発して武力蜂起を画策する。かくて木曽義仲が駆り出され、義仲抑えがたしとなれば、頼朝が呼び出される。
武士の台頭は、旧勢力にはどうにも許しがたい。彼らは眼前の敵を払うのに必要な道具ではあっても、それ以上にのさばられても厄介だ。だから武士の粗暴、無知を笑い物にしながら、陰謀によって葬り去る。そうした貴族の政治的手練、手管にかかっては、武士は物の数でもない。木曽義仲の栄光と滅亡の悲劇が、目に浮かぶ。義仲は確かに、粗野かつ無知であったにせよ、忠義に厚く、下僚と交わした友誼を重んじ、そのために自ら命を落とす武人であったことを物語は伝えているのである。
下からのし上がる階層は常にそうした悲哀を免れないのだろう。西欧でも貴族層に入り込もうとする市民層はそうであった。彼らがブルジョアとして、経済力を背景に政治力や独自の文化を確立して、ようやく揺るぎない地位と自信を得たのであろう。ただ平家の場合はこれとは少し違うように見える。彼らも当初は、高貴な貴族から馬鹿にされ、疎まれ、同じ殿上人として列せられるのを、激しく阻止されたが、しかし急速に歌舞、音曲、和歌等の教養を身につけ、その振る舞いにおいて貴族化していくのであった。それはまた、彼らの武士としての活力を失わせる一因になったのであろう(以下次回)。
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