6月3日・月曜日。晴れ後曇り。時に雷雨あり。
6月7日・金曜日。晴れ6月。
6月10日・月曜日。曇り。
『平家物語』の著者、成立時期はかなりのところまで推定されても、確定的なことは言えないらしい。ただしそうした書誌学的な話は、あまりに専門的に過ぎて筆者には扱いかねるため割愛する他ないが、現在流布本とされる「覚一本平家物語」(筆者の読んだ『物語』もこれを底本としている)は、「平曲」(へいきょく。琵琶の音に合わせて語られる平氏の物語)に新曲を加えて「一方流」(いちかたりゅう)を大成させた検校・覚一の功績である、とは言っておきたい。その故にであろう、彼は一方流の中興の祖とも評価されるらしい。この覚一が物語を口述筆記させ、弟子の検校・定一に譲与したのが「覚一本」であった。応安4(1371)年のことである。
ここに至った経緯は、覚一すでに70歳を超え、彼亡き後、弟子たちによって物語が勝手に改変され、それがもとで争論の生ずることの無きよう、「当流ノ師説、伝授ノ秘訣、一字ヲ欠カズ」に筆記させ、これを唯一の正統本として残し、門外不出としたばかりか、門人内の書写すら絶対の禁止としたのである。この禁に「背ク者ハ、仏神三宝ノ冥罰、ソノ身二蒙ルベキノミ」とは、覚一のかけた呪いであった。
それに以外にも、彼は「当道」なる盲人の職業保護を目的とする制度(中世以降、幕府によって公認された検校を頂点とする自治組織である。琵琶、鍼灸、筝曲、三弦などの団体があり、明治4年まで存続する)を創始した人とされ、足利尊氏の系譜に繋がる明石覚一その人ともされる。
さて、この「覚一本」の原本は、いまや現存しないと言う。対して、あれほどの禁令にも拘らず、数種の写本が残され、そのお蔭をもって我が国のその後のあり様(宗教、文学、芸術、思想、死生観等々)に無限の余沢をもたらしたと言うのも皮肉だが、それとは別に、この話は人にとって秘密の保全がいかに難しいかを教えてくれる。
『平家物語』には、その前身として、もはや存在しない『治承物語』(1220~40年の間に成立したとされる)と称された3巻ないし6巻からなる平家盛衰の軍記物があり、それが『平家物語』の素材や資料として、あるいは骨格をなしたことは確かであろうが、両者の類似性はそこまでのことではないかと、素人として、勝手なことを言っておく。覚一本になるまでにはすでに百年以上の時を経ているし、その間様々な話が加わり、法師の語りによって改変されていることは疑いないからである。そして、『治承』から『平家』への転成は、それまで語られていた覚一の受け継いできた様々な物語が「文筆に携わることの可能な晴眼の知識人の関与によってテキストにまとめられた」(「解説」790頁)ことが決定的ではなかったか。彼によって、『平家』が現存するような統一的な意思の下に文学作品として誕生しえたと思われるからである。では、その人物とは、誰か(以下次回)。
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