7月2日・金曜日。雨。
今月はわが誕生月であり、4日後の6日、78歳となる。それが目出度いことなのかどうか判然としないが、今に至るも、こうして何事か為すべき仕事を持ち(?)、ヨロヨロ乍ら動き回れることには、感謝したい。
それにしても、過日の八街市の小学生を巻き込んだ事故は痛ましかった。まだまだ先のある、そして何の落ち度もない児童たちの命を、一瞬にして奪ってしまった。傘寿近くまで永らえた筆者からすると、まったく理不尽な話である。飲酒運転の罪は厳しく罰せられるべきだが、歩道も無いあんな道路を、長年、通学路として放置してきた行政の怠慢も断罪されなければならない。
「市は現場周辺に、通学路であることを運転者側に知らせる路面表示を設置した。さらに、歩道を整備したり、信号機の設置を県警に要請したりする方向で検討を進めていたところ、今回の事故が起きた」(朝日新聞6/30・水)と、弁解しているようだが、こんな対策を実施するのに、一体、何年かけ、どれ程の犠牲を払えと言うのか。
筆者は、「方向で検討」していたという市の言葉それ自体を嘘ではないかと疑う。この種の事故は、常に検討の矢先に起こるが、このような言辞を弄して、行政の怠慢を言い繕うのは常套手段である。第一、こんな事は何年も検討しなければならないことなのか。現場は、7m幅の道路で、大型車の行き来が困難な上、「抜け道になっていて、飛ばす車も多い」ため、地元はとうに対策の要望を出し、市は十分、危険な状況にあることを認知していたのである。すでに5年前の16年3月には、同市教育委員会は、「市通学路交通安全プログラム」を定めて、危険個所を特定し、信号機の設置要望や対策を進めていたとあっては、市の弁明それ自体が無効である。
自公連立政権の唱える「安全安心」な国造りとは、一体いかなる国なのであろう。一人の選挙運動に1億5千万円の資金を惜しげもなく出す政党が、児童の通学路も十分確保できない政策とは、これをどう考えれば良いのか途方に暮れる。この度のワクチン等の諸問題でもそうだが、国民の基本的な生存権も守られず、リニヤだ、デジタルだ、オリンピックだなどと浮かれていられるほど、我われは豊かなのだろうか。
「この国は災害大国だ。今でも各地に、震災や噴火や台風被害で家を失った人間が大勢いる。災害時に被害を最小限に食い止める方法はあるが、金がかかるから、なかなか国はそれを実行に移さない。そのくせ、オリンピックだの、派手に見えるプロジェクトには湯水のように金を注ぎこむ」(福田和代『東京ホロウアウト』339頁。東京創元社・2020)。上は、ある小説からの一文であるが、まさに筆者の思いを言い当てた。つまり、わが国の国家予算はその配分において決定的かつ根本的な誤りがあるのではないかという危惧である。だが、これは筆者の単なる思い込みに過ぎないのであろうか。衷心より、教えを乞う(以下次回)。
コメントを残す