2021年4月16日

4月16日・金曜日。薄曇り。

 

承前。ここで、前2話についての私の立ち位置、というか向き合い方を言っておきたい。筆者はこの手の話に免疫がない訳ではない。だから、前掲書を読み、その不思議な世界に、ただ驚かされてこれを取り上げたのではないのである。母親が新興宗教の熱心な信者であったから、こうした話はよく聞かされて育った。また、若いころに読んだ宗教関係の布教本にも、この種の話は尽きない。という事で、本書が何らかの宗教法人からの出版であったら、私は見向きもしなかったはずである。そこでは、必ず布教と教団の勢力拡大が意図されているからである。

少なくとも、本書はそれとは全く無縁な視点から書かれた。著者はそれを、「生者と死者をつなぐ物語」(17頁)と呼んだ。つまり、かけがえの無い大切なひとを突然失い、悲惨に沈む生者が、死者の霊と思いがけずに出会うことで、再び前向きな生への転換を図る物語として書いた。霊との遭遇は、普通、恐怖体験でしかなかろう。だが、愛しい人の霊とは、恐れどころか、何としてでも出会いたいと言う。それが本書の題名『魂でもいいから、そばにいて』の意味である。

以上を前提にして、前2話を読んでみて、これは根も葉もない作り話、よくてただの幻影を見ただけの話だと見る人と、書かれたことの全てが真実ではないにしても、ここには否定できない確かな世界があるに違いないと見る人では、どちらが多いであろうか。前者は、いわゆる唯物論者であり、科学的に証明されうる世界のみを承認しようとする人々である。たしかに科学とは、そのようにしてのみ成立する世界だ。だが、著者はこれに対して、末期癌にある知人の大学教授の言葉を紹介している。「死ぬことがわかってから、合理的に理解できないスピリチュアルなことが周りでいっぱい起こっていることに気がついた。常識に囚われていると、そういうことに気づかないのだろうね」(301頁)。

そして、著者はこう続ける。「この世に存在するのはモノだけではない。ある人を慈しめば、慈しむその人の想いも存在するはずだ。この世を成り立たせているのは、実はモノよりも、慈しみ、悲しみ、愛、情熱、哀れみ、憂い、恐れ、怒りといった目に見えない心の働きかもしれない」(301頁以下)。こうして、著者は仏教的な唯識論に近接するようにみえるが、それはともあれ、ここでは科学的な対象を越えた世界の存在が、浮かんでくるのではないか。

筆者はここで、この世ならぬ「あの世」の存在を言い募り、それを証明してやろう、と言った大それた野望を持つものでは無い。ただこのような話を筆者が始めたそもそもの契機は、ミャンマー国軍兵士が自国民の生命を虫けら以前のように扱い、無意味にしかも無惨に殺傷し、恐れることを知らないような暴挙に触れたからであった。こうした残虐の興奮が去り正気に戻った時、彼らは己の暴虐の恐ろしさに打ち震えることは無いのか。特に、この世を越えた世界に、いずれは逝かねばならぬ身としては、それをどう見据えるのであろうか、という思いからであった。そして、「あの世」を少しでも、感ずることがあれば、現代の我われの生き様は、今少し、大自然の一切の生命に対しても謙虚に振る舞うことになるのではないか、という思いも重なるのである(この項、終わり)。


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