2月17日・水曜日。晴れ。前回の文章、やや訂正した。
2月19日・金曜日。晴れ。本日、一読者から、外国人技能実習生制度に関する貴重なコメントを頂戴する。25年前に、国の責任で導入された本制度には、当初から「劣悪な労働環境とかブローカーの介在とか人権侵害」が指摘され、今なお改善されていない現状に憂慮するとある。同感である。
本日は「閑話休題」、主題からやや離れた題材を扱ってみたい。昨日(16日)のNHKテレビのニュースに触れて、そんな気になった。事は、将棋界の至宝・藤井聡太二冠(王位・棋聖)の高校自主退学に関するものである。それにしても、一高校生の退学が、NHKで取り上げられる程の重要事になったこと自体驚きであるが(こんな事がかつてあっただろうか)、それだけ二冠の活躍が将棋フアンを越えて、国民的な関心の的になっている証であろう。これは、一愛棋家を任ずる筆者としても、誠に喜ばしい。
ただ、ここでの話柄はそれではない。高校卒業まで2ヶ月足らずになっての決断に、折角ここまで来て、いかにももったいない、自分が親であれば、何とか思いとどまらせただろう、親御さんのお気持ちはドウであったか、との筆者なりのジレンマを記してみたいのである。
ここで「もったいない」という気持ちは、何に発することであろう。高校卒業で得られる卒業証書と、それが保証する今後の人生上の可能性の放棄があろう。高卒の資格がなければ大学には進学できない。他にも、就ける職業が限られる。学校とは、様々な意味と機能をもつが、こうした資格授与機関としての機能は特に絶大であろう。
これらの可能性を、藤井二冠はあと2ヶ月を待たずして、自ら打ち捨てたのである。かつて、大学付属中学・高等学校の校長職を5年間務めた筆者としては、「エーッ」と、ただ絶句する他はなかった。師匠の杉本八段もそんな印象を漏らしておられた。もちろん師匠は、それに続けて、直ちに弟子の決断を諒とし、むしろ将棋にかける覚悟を讃えたのである。師の思いの深さが伝わる一齣であった(なお、この二人の師弟関係については、いずれ触れてみたいと思うほどに、好ましいものがある)。
しかし、こうした考えは、これまで学歴という資格と組織の中に身を置いて生きてきた筆者のような者の考えに過ぎない。制度的な保証を全く当てにせず、自らの実力のみで生を送れる人びとにとっては、そんなものは何でもないのであろう。筆者が心酔した升田幸三は、13歳の折、広島県の実家を家出同然の身で、大阪に出奔し、遂に実力制第四代名人に就く名棋士であった。氏は、政界、財界ほか各界の名士の多数を惹きつけ、またその豪快にして構想力あふれる棋風が―升田幸三賞につながる、独創的な手を生涯求め続けて「新手一生」の言葉を残した―、若い才能を棋界に呼び込んだのである。筆者は、専門棋士の幾人かから、直接そう聞いたことがある。
藤井二冠の自主退学は、実に思い切りがよい。その背後にどれ程の危険と未練があろうと、それをスッパリと切り捨てる爽やかさがある。それは彼自身の将棋と瓜二つであった。二冠の終盤の切れ味の鋭さは、とても十代の覚悟とは思えぬものがある。敵玉に迫る手順に遅滞はなく、息つく間もなく詰ましてしまう。そのスピード感と迫力に、対局者はなす術もなく、ただ茫然とさせられるだけであろう。
それにしても、ここでは大山康晴十五世永世名人が、将棋の強さを問われて、「生き方である」、と答えた言葉が思い出される。この度の二冠の退学には、自身の将棋観が重なり、両者は一体であったのだ、と改めて教えられたものである(この項、終わり)。
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