2020年6月22日

6月22日・月曜日。雨。今月より週3日の配信を心掛け、秘かに固く決意したものの、早や緩い決意に変わりつつある。来月は、元通りになるやもしれない。理由はネタ切れにあらず、単に疲労である。本日は、6月17日(水)の問題に戻り、それを引き継いで考えたい。

 

そこでの論旨はこうであった。介護の現場とは、物品ではない、生身の虚弱な、それ故しばしば自分では処理しえない不満と鬱屈を抱える高齢者を対象とし、排泄の処理はじめ、神経と肉体をすり減らす作業の場である。その上、人員不足、多忙、長時間労働、報酬等、あげればきりの無い不満が重なる。仕事の重要性は社会も認めるが、しかし介護職に対する評価は限りなく低い。この事は、介護者当人を目の前にした、利用者たちのあけすけな差別や蔑視の言動からもハッキリしている。そうなったのは、介護職など、誰でも出来る、簡単・単純で低レベルの職務であり、替えは幾らでもあると言う、社会通念に拠るのであろうか。しかし、介護職とは、決してそんな単純労働ではなく、技術や経験に加えて精神的な靭さと成熟を要するタフな職務であることは、すでに見た通りである。

わが国の高齢者人口は、今後、漸増する一方であることは、各種の統計数値からも明らかである。他方、介護を職業として選択しようとする若者は、それに見合っていない。かくて、両者の乖離は拡大するばかりとなる。しかも、現在すでに介護難民が取りざたされ、その対応は苦しく、やむなく介護離職に追い込まれる人々は、年間、8~10万人になると言われる。だが、その弊害は、経験のある社員を、突然失う企業にとって大きな痛手であるばかりか、離職者としても「経済的・肉体的・精神的な負担」は耐えがたく、社会的な損失は計り難い現状である(酒井穣・リクシス副社長。朝日新聞・6/3・水・11面)。

であれば、社会や国は、この問題に早急かつ真剣に取り組まざるを得ない段階にあり、差別や蔑視などと言っている場合では、もはや無い。介護職とはかくも重要な職務であり、老々介護の惨状と悲鳴、さらには介護に絡む事件の頻発ぶりを思えば、遅滞は許されるものではない。

現在のコロナ禍はこうした問題を抉り出したが、しかし同様に差別と蔑視に苦しむ職業は、介護職に限った事では無かった。エッセンシャルワーカーと言われる、社会生活を支える流通・スーパー・交通・土木工事等の、いわばテレワークの出来ない各種の職業についても同様の事が言えるのである。日頃、低賃金、長時間労働を強いられ、経済的・社会的な格差の苦しみに喘ぎ、ようやく日々の生活をやりくりしていた者たちが、コロナ禍によって突然生計の道が絶たれてしまう。その鬱憤が突如爆発してもやむを得ない。これが極端な形で突発したのが、米国社会の問題ではなかったか。日本社会にはそれほどの根深さは、いまだ存在しないのかも知れないが、その胚芽はあると感ずる。

しかしこの問題以上に、筆者が問いたいのは、社会的な有用性、重要性のあるものだけが評価され、それ以外の、一見すると無益にみえたり、用途の定かならぬものは、打ち捨て、無視して構わないと言う、現代社会の酷薄さである(いや、これは現代に限らず、人間社会に根ざした、太古以来の根源的な酷薄さであるのだろうが)。しかし、この問いは、恐らく、人間存在の在り方に触れる、宗教的、哲学的な問いに触れることになり、これに答えるには、わが脳髄は余りに微弱に過ぎるため、ここではただ問いとして提出するにとどめる他はない(この項終わり)。


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