2016年11年2日

11月2日・水曜日。曇天。晩秋から初冬の感あり。ほんの二月前のあの灼熱は何処に。

ここでホッブス理論の難点を論ずるつもりはないが(と言ったって、そんな素養はまるで無いのダ)、以下との関係で一点だけ上げておきたい。彼によれば、社会成立以前、すなわち原始未開(スミスも同じ言葉を使う)において、人間は孤立し、かつ互いに闘争する生活を送っていた。そうした状態では、人は結局生きては行けず、それは「生きよ」と命ずる自然法に反する事でもあり、かくて前回述べた契約関係が成立する。統治はここに始まる。

ここでホッブスの想定する人間とは、独立した人格権を有する、自身の運命は自ら決しうる理性的な人間である。だがこれは、ホッブスの人間観、あるいは人間像を原始未開の人間もそうであろうとみなしたに過ぎない、一種の想像である。そして、このような人間の自由な判断に基づく契約によって、国家は成立することになる。だが、考古学的にみれば、そもそも社会成立以前の孤立分離した人間生活というものは存在しなかったようであり、人は最初から家族を基本に、ある群居のなかで暮らしていた。ましてや、独立人格による自由な契約に基づいて成立した国家社会など、古代ギリシアの都市国家に萌芽的に見る外は、近代以前には一度もない。だから、ホッブスの主張は一つの擬制(虚構)の上に構成された理屈である。

これだけを見れば、彼は根も葉も無い、ただの空想を述べたにすぎないことになる。にも拘らず、そこには国家成立の根拠が確固として据えられている、と言わなければならない。というのは、彼の国家論では、統治(この意味を、私は支配=被支配の関係と解する)は被治者・被支配者の側からの、その統治の明確な是認や承認を前提に成立しているからである。確かに歴史的に見て、治者と被治者が同等の立場から相方納得ずくで、統治が成立した事例は稀でしかなかった。侵略、占領の場合には、この関係は明確である。そこでは治者が一方的、暴力的に被治者を弾圧、抑制するからである。

そうした時代状況の中で、支配=被支配は被治者の側からの統治の是認、すなわち、「私は、貴方が私を支配することを認め、かつお願いします」という関係の内に成立する、とホッブスが見たのは画期的ではなかったか。治者が被治者を圧倒的な暴力の下で、一方的に抑圧した支配は可能だが、それが永続的、安定的に維持されることは難しい。そのためには、先にも言ったが、圧倒的な強力(暴力装置)と監視機構の整備が不可欠である。そうではない、平和で安定した統治が成立するためには、統治される者の権力への是認は最も重要な条件であろう。それを「支配の正当性」と言って、理論化したのが、マクッス・ヴェーバーであった(今日はこれまで)。


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