2016年9月23日

9月23日・金曜日。雨。列島は台風、秋雨前線の影響か、打ち続く豪雨に苦しむ。

前週は大学校務他のため、休載とした。その間、『南極越冬隊 タロジロの真実』(小学館文庫、2011)を読んだ。著者は、渡瀬恒彦役のモデル、北村泰一氏(九州大学名誉教授)である。本書は著者の残した膨大な資料を、共同研究者の一人であった賀戸 久氏(金沢工業大学教授)が編集してなった書であるが、そこにいたる経緯はともあれ、それによれば著者には当時夏目雅子演ずる相方はいなかった。要するに、映画は実話にあらず、ということである。映画に見るドラマ性はそれなり割り引いて考えなければいけない。しかし、事実は映画をはるかに超えた内容を湛える。人間と犬たちとの心の交流、信頼、想像を絶するブリザードを突進する犬橇隊の勇気、厳寒と窮乏の中、困難に対処する隊員らの忍苦、工夫、西堀隊長の統率力等のいずれも、現在のフヤケタ日常に埋没する我ら日本人を叱咤し、鞭うたぬものはない。

そうした創作の一つに、ラストシーンの隊員二人とタロ・ジロとの邂逅の場面がある。これは、本作の最も感動的なシーンではないか。まさにエンディングにふさわしいクライマックスであった。これが創作とは、恐れ入ったが、しかしあれは、アーでなければならないとも思う。

事実はドウかと言えば、すでに上陸した三次越冬隊員から、一年前に置き去りにした二頭(?)の犬の生存を知らされた著者は、狼狽えながらもヘリに飛び乗り、宗谷から昭和基地に急行する。振り向けば、百メートル程先の「二つの黒いかたまり」が犬だと気づいた著者は一目散に突進する。この気迫の凄まじさに犬たちは気おされ、後ずさる。「目の前の犬たちは、私が想像していた痩せこけている姿とは似ても似つかなかった。まるまると太り、まるで小熊のようだ。彼らは首を下げ、上目でじっと疑うように私を見上げる。…私は、さらに一歩前に出るが、犬たちはそのぶん後ずさりする。…犬たちが前に進むと、私はそのぶん下がってしまう。一年前に彼らを置き去りにしたという、スネにキヅを持つ身には、ひょっとしたら自分を恨んでいるのではないか、という気持ちが頭の中をよぎるからだ」。

この膠着状態を打開したのは、著者が犬の名前を次々呼んで、最後にタロ・ジロになってかすかに尻尾がゆれたときであった。ついに互いの意思が通じた。その後は映画の通りであったという。

犬たちが逡巡したのは、相手が誰かが分からなかったからだ。ただ、それだけのことであった。しかし、アイツだ、と知ったとき、許すも何もない、互いの出会いを一も二も無く喜び、ただ嬉しく飛びつき抱き合った。

しかし、人間はドウか。前非の罪の意識に怯え、だから食い殺されるのではないか、と恐れたのである。そう思う彼の意識は、自分がそのような目に合わされたなら、タダではおかぬ、この恨み、七生を懸け、何としても生還し、あの野郎共、子々孫々に至るまでタタってやる。「オノレ、うーっ、ドウシテクレヨウ。畜生!」とばかりの、復讐心、敵愾心、何とも名状すべからぬ怨念に苛まれ、そんな恨みだけで、この酷寒を生き抜く凄まじさになったことは間違いあるまい。であればこそ、人は相手を許し、己も救われるためには、かの御大層な宗教、哲学なるものを編み出さねばならなかったのであろうか。また、人と人との関わりは、時にいかに悲惨で、無限地獄に陥るのに対し、動物とのそれはいかにもシンプルで、それがどれほどの救いになるかと思うと、私はしばし、呆然とする。『南極物語』はそんな思いを、強く焼き付けたのである。


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