2016年7月4日,8日

7月4日・月曜日。熱帯夜の翌日ゆえ、意識朦朧なり。(7月8日・金曜日。薄曇りだが、蒸し暑し)。

私の生活が少々変わり、この6月より母校の監事として就任し、大学経営の一端、ほんの端くれ、を担うことに相成った。これを我が栄誉と誇るべきか、あるいは「またゾロ、苦界に身を沈め、自ら好んで苦労をショウのか、懲りないね」と、嗤われるかもしれない。ともあれ、そのため会議、その他一連の行事にも参加することとなり、疲労もあって、前週は休載とさせて頂いた。今後もこれまでのペースを出来るだけ維持していく心算だが、時にこんな事があるやも知れず、その折はそうご理解願いたい。「ドーシタ、病気か」と、ご心配される方もキット多かろうと、勝手に思いつつ、実は一人もいないかも知れぬ、それはナントも情けないと懊悩しながら、先ずは一筆啓上する次第。

さて、続き。ソフォクレスは『オディプス王』の話を一から全て創作したのではない。一般に、ギリシャ悲劇はすでに人々に馴染みの神話から題材を選び、そこに作者の解釈と演劇的な効果、創意、あるいは時代や政治状況も織り交ぜて作品化されている。だから、同じ題材が作者によって多様な色合いを帯びて舞台に載せられた。観客は、今度はドンナ筋立てにより、いかな苦悩と解決が待っているかと、固唾をのんで見守ったであろう。こうして創作された作品は相当の数に上ったようだが、現在に伝わるのはそれほどでもない。そして、前5世紀頃、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらの「三大悲劇詩人」によって、劇としての様式が整えられたと言われる。

ただ、ここでの『悲劇』とは、我々に馴染みの「受難と闘い苦悩する主人公の悲しい結末で終わる劇」(明鏡国語辞典より)ではなく、神や卓越した人物・英雄の宿命的な運命を扱う厳格な形式とそれゆえの美をそなえる劇という。そうした悲劇を鑑賞することで、観客は自らに鬱屈した心理的、生理的な悩みや負担が解放できる、とはアリストテレスの説であるが、これを彼は「カタルシス」(浄化作用)と呼んだ。その他、劇の構成、舞台、上演方法、役者とコロス(合唱隊)およびその関係、台詞は韻律を持つ詩形からなり、それは主にギリシャ叙事詩に由来するとか色々あるようだが、分からない事も多いらしく、だからそんな詳細を私がここでシッタカブリですら扱える分けもない(今日はこれにて)。


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