2016年6月17日

6月17日・金曜日。風生ぬるく、蒸し暑し。不快。

ヒトの精神的構造は、心理学的には(と言うよりも、フロイトによれば)、イド、自我、超自我の三層からなり、この段階を踏んで我々は成長するらしい。そして、さきのリビドーはイドの内に貯蔵される。となれば、イドは生れ落ちたままの生存本能の場ということになり、ここでのヒトの行動は快楽原則に従い、他の動物のそれとあまり違いは無いと言えまいか。この点、我身を省みれば、この歳に至るも誠に恥ずかしい限りの数々ながら、だがそれは此のところの舛添サンの釈明を上げるまでも無く、私だけの事でもあるまい、と言い訳をしておこう。むしろ、この事実を我々は、キチンと見据えなければいけない。ドンナに偉そうなことを言おうと、所詮、我々は生物進化の中で育まれた動物の一員にすぎず、これを離れては生きていけない。であれば、ヒトは万物の霊長などと言わずに、モット謙虚になったらどうだ。他の仲間にとって生活し得ない環境は、我々にとっても同じなのだから。

ところで、イドは自らの欲求を無限に解放することは出来ない。まずは自身の身体的な能力の限界のほかに、彼の生きる社会の掟、さらには幾多の規範が社会成員の勝手、我が侭を許さないからだ。それら社会規範は超自我として両親、近親者からの躾や懲罰を介して彼に押し付けられ、内面化されようとする。こうして、社会の在るべき人間像・理想像を突きつけられるが、それに対する彼自身の希望、能力、資質の問題もある。ここに彼のイドと超自我との葛藤が生じ、その過程の中で、彼の自我の形成が図られる。となると、自我はイドと超自我との交点、仲介の場と言えないか(さらに、その自我をもとに、彼の理想とする人間像、あるいは望ましい社会建設に向けて自己の成長を目指すとき、ここに自我理想の分化、成長がなされる)。ただし、この自我形成は先の「内面化」の言葉が示すように、それは自覚的、意識的にではなく、むしろ日常的な生活の中で、無意識の内になされると言う。だから、自我は自己意識ではない。ここでの「自我」は、個人の無意識に為される行動・思考・欲求のあり様・その仕組みを理解するための概念としたい(いよいよ分からない話になってきたから、ここで止めよう。と言うより、何かトンデモナイ誤解をしているかも知れないから、読者ヨ、興味があればご自分で勉強されたい)。

こうした文脈、枠組みの中で、フロイトは「エディプス・コンプレクス」を説いた(ヤレヤレ、ようやく書くべき地点に到着したが、本日は会合のため、これまで)。なお、この段落は23日・木曜日に補足したものであるが、それが良かったかどうかは、私にはワカラナイ。


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