2016年3月4日

3月4日・金曜日。晴れ。

今月1日・火曜、最高裁第3小法廷では、一つの画期的な判決が下された。認知症のために鉄道事故を引き起こした患者家族の監督責任をめぐって争われた事案であるが、最高裁は本件についての家族の責任は認められない、としたのである。その詳細については、ここでは触れないが、平成19年、愛知県JR駅構内で発生した91歳の認知症患者の事故死以来、遺族は家族を失った悲しみを癒すどころか、JR東海から突きつけられた780万の賠償責任問題の訴訟に巻き込まれ、今日まで八年間、不安と緊張の日々を過ごさなければならなかった。二審でこそ、賠償金は半減されたが、それでも下級審はいずれも家族の責任を認めていたからである。

巨大権力や組織に対して、一家族が独力で立ち向かうその不安と恐れはどういうものであろうか。しかも八年間の長きにわたって。それを思うにつけても、この度のご家族の決意、これに纏わる困苦とその努力に対し、心よりの敬意を表し、また祝意を申し上げたい。同時に、弁護士、支援団体のこれまでの献身を多とし、これを大いに称えたい。こうした方々の戦いによって手にし得た判決は、今後、この種の悩みを抱える日本中の家族に大きな安堵を齎したからである。

率直に言おう。下級審の判決が確定していたらドウなったであろうか。患者を抱える家族は介護の心労・経済的負担に加えて、徘徊に対する万全の対応を強いられる。それは具体的には、いかなる対策であろう。しかもそれらは全て老いた肉親に向けられるのである。残念ながら、私にはそうした事を事細かに思い浮かべる勇気もなければ、強靭な精神力はない。その挙句、家族は困憊と懊悩のあまり肉親の死を願う方向へと向かわざるをえないだろう。現在でもしばしば起こっている事件は頻発し、家族の精神的な荒廃は、結局この国の道徳率を根底から毀損するに違いない。それは『楢山節考』にはあった老親への痛切な愛情と謝罪の欠片も無い陰惨な社会の到来である。そして、それらの対策を実行する子世代は、自分の子供たちに同様の仕打ちをされるのではとの不安におびえ、かくて家族を基礎とした社会は著しく劣化するであろう。

JR東海に、私は強い怒りを覚える。確かに振り替え輸送やその他諸々の費用が掛かったであろう。しかしそれを司法の場に引き出すとは何事だ。大権力が一家族に圧し掛かれば、手も無く意を通せるとでも思ったのであろうか。君たちは二審の判決を不服とし、最高裁に上告までして、結局裁判に負けた。そして、言った。「最高裁の判断ですので真摯に受け止めます」。ならば、事故で発生した諸費用はこんな事をしなくても処理できたのだ。こんなやり方で損害を回復するのではなく、事故に対する防止策の強化は無論だが、それ以上に、国や地域社会等々と協力して認知症患者を含めた、同種の事故に巻き込まれた人たちや家族の救済対策やそのための制度の確立を目指すべきではなかったか。それが公共事業に従事する会社の姿勢であろう。現在、認知症高齢者は520万人、9年後には700万人に達すると言われているだけに(NHK)、この種の事故は今後も不可避であるばかりか、急増するのは必至であり、それだけ抜本的な対策が喫緊の課題であろうからだ。まさか、その度にJR東海はこんな裁判をやって取り立て屋をやろうと言うのではあるまい。

JR東海の諸君、君たち自身もやがては歳をとるのだ。その時、君たちは認知症に罹り、同じ事故に会わない、とは限るまい。その折、君たちは「介護家族の監督責任」を問われ、長期に及ぶ孤独な訴訟に巻き込まれて、遂に最高裁まで上告されたら、ドウされるお積りなのか。こんな裁判をやらかした君たちのことだ。キット、会社のためにあっさりそれをお認めになって、賠償金の支払いに応じられるのであろう。


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