2016年1月7日

2016年1月7日・木曜日・晴れ後うす曇り。

謹賀新年。本年も宜しくお願い申しあげます。と言って、喪に服する者は、普通、新年の賀詞交換は遠慮するのがこの国の仕来りのような事を、何処かで聞かされた気もする。これは多分、神道由来の慣習であろうが、これまでもそういう事には頓着なく過ごしてきた私としては、アッサリと参りたい。いちいち説明するのは面倒でもある。

さて、昨年末の12月23日・水曜日、私は日本将棋連盟主催による小・中・高生の将棋大会(於・東京武道館・綾瀬。興味のある方は連盟ホームページをご覧あれ)に招かれ、付き添いのご父母向けに一つ話しをした。題して「将棋に導かれて」。

まさかここで、その話を再現しようというのではない。そこでの話の一つをつまんで、あの時コウ言えば良かったとの反省を込めて披露してみようか、と言うにすぎない。それが新年の最初の話題として適うかどうかは、私の知るところではない。

前日、田中寅彦九段から電話を頂戴し、たまたま翌日の我が話になり、田中さんはこう言われた。「要するに、将棋をすれば子供たちは、ドンナに頭が良くなるか。そういう主旨で、どうでしょう」。これは私の思いでもあり、それでイインダ、と大いに勇気付けられ、当日を迎える事ができたのである。後に連盟からは、「有意義なお話が伺えた」と言った声が保護者、引率の顧問の先生方から―-多数とは明言されてはいないが―-寄せられたとの手紙を頂戴し、私としても安堵した次第である。そして、これは断じてお世辞ナンゾではなく、衷心から発せられた真心の言葉である、と私は深く、強く確信していることを、ここに厳かに付言しておきたい。

さて、将棋の持つ教育力、その有効性は、今更改めて言うまでもない。のみならず、人生上の意味についても、然りである。企画力、構想力、緻密な思考と論理性、忍耐力と責任感。とりわけ興味深いのは、決着の場面である。勝負の場である将棋には、常に勝者と敗者がある。しかしそこには、アカラサマな雄叫びも無ければ、悲痛な呻きも無い。敗者は静かに、だがハッキリと「負けました」と敗北を宣言する。そこで両者は互いの健闘を祝すかのように、礼を交わして終局となる。勝者は敗者への労りが、敗者は勝者への祝福を惜しまない。互いに死力を尽くした両者には、いまや勝敗を超えて、将棋の真理に一歩近づきえたとの満足感しかないのであろうか。それゆえここに座を占めるのは、抑制であり、互いに対する礼節である、と言いたい。それが、「礼に始まり、礼に終わる」の意味でもあろう。だから、こうも言いたい。今この場において、両者は将棋の神の御前に深く額づき、頭をたれ祈るがごときである、と。それは、西洋伝来のスポーツの場面とは何たる違いであろうか(本日はこれまで)。


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