2015年10月2日

2015年10月2日・金曜日・荒天の後、快晴。

ここでの首相の口吻は、談話冒頭の日露戦争の勝利がアジア・アフリカを勇気づけた、との言葉に直結する息遣いを感じさせる。それにしても、改めて問う。「挑戦者」を、かような文脈で使うことができるのであろうか。「国際社会が壮絶な犠牲」の上に築こうとする新たな国際秩序に挑戦するとは、一体何を意味しようか。有体に言えば、国際社会の懸命な努力と尊い犠牲を無にしようとする行動である。それはまた秩序の破壊者であり、社会の安寧秩序を破る犯罪者ではないか。それが挑戦者である、と言い換えられるならば(尤も、戦後の内閣が一貫して維持してきた集団的自衛権の行使の縛りを、一朝にして解いた首相であれば造作もない事かも知れないが)、世のあらゆる犯罪者もまた、確立された社会秩序への挑戦者であるに違いない。「お前の振る舞いは、確かに間違っていたけれど、果敢であり、ミンナに勇気を与えるものであった」。こんなことを時の総理から言われたら、その犯罪者はドンナ顔をするのだろう。これはモウ悪い冗談どころの話ではなかろう。これは言葉の乱用を超えた、社会的倫理規範の混乱、イヤ、瓦解である。

3・ここで指摘したい第3の論点はこうである。今や、日本の人口は、戦後世代が八割を超えるにいたった。そうした世代の国民は、当然ながら、先の大戦には直接の関係もなければ、責任はさらにない。だから、首相は言われた。「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」。この主張に、私は十全の賛意を表したい。ましてや、従軍慰安婦の問題を世界に曝し、我らの子孫たちがこの先、世界中の何処でも、この件が話題になるたび肩身の狭い思いをさせてはならない。それでは、あまりに相済まない。ただ問題は、首相やまた我々のこの思い、願いをどう実現していくか、である。「すでに日本からの謝罪は十分に尽くされ、またそれに伴う賠償も果たした。君たちは、自由な合意に基づき条約に署名したことが、その証である」。日本側からこう宣言して、この問題にケリをつけられない現状を、どう解決していくかが、問われているのである。この場合、一方的に相手側の非をならし、我々の正当性を言い募ることでは、問題は何ら解決に向かわない。むしろ事態はかえって混沌とし、互いの憎悪をますばかりではないか。だが、当談話にその具体策を盛り込むことなぞ、不可能である。談話とはそのようなものでないことは、十分わきまえている。私がここで言いたいことは、相手側はこれまでの日本の謝罪等をいまだ不十分とし、怒り、恨みを解いていない事を肝に銘じ、条理を尽くした対話と手立てを果たし、その上で国際世論の理解を得る、そうした粘り強く、幅広い外交努力の構築についてである。

最後に次の一文を引いて、この項を閉じよう。それは当談話の中で、私が最も共感し、首相、良くぞ言われたと、申し上げたい箇所である。これまでの歴代内閣は先の大戦におけるわが国の行いについて謝罪を重ね、またその思いを実際の行動でも示してきたが、しかしそれによって諸国の国民の味わった苦しみが癒えるわけでないことを、日本政府・国民は理解する。この文脈で首相はこう続けられた。「私たちは、心に留めなければなりません。 

戦後、六百万人を超える引き揚げ者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。 

戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。(以下略)」

上記の文章は村山・小泉談話の精神を引き継ぎ、さらに発展させた、談話中の白眉であると信ずる。さらに、この精神が政府の様々な施策のなかで生かされ、実現されていくならば、わが国と中・韓両国との良好な関係も視野に入るものと期待させられるのである。

以上、安倍談話をたどってみると、首相の思いには二つの流れが錯綜、ないし混在しているように見える。一つは、首相の憲法改定に繋がる「美しい国」日本、すなわち明治憲法下で実現した国家像を目指す方向と、二つ目は現憲法における平和国家、すなわち民主主義的な社会についての承認である。だがそれは、戦勝国によって押し付けられた現憲法の所産であり、そこからは戦前に比しての規範意識の弛緩と社会の乱れという現状を生じさせた。であれば、憲法成立の経緯と国家の真の独立を果たすためにも、改憲は不可避である。とは言え,自由・人権・民主主義といった思想と社会制度は、自由主義社会の根幹であり、人類の普遍的価値として認めるほかはない。そうでなければ、またもや日本は世界の「挑戦者」となりかねない。かくて談話は、一方でわが国の戦後レジームへの挑戦に向かいながら、他方で民主主義的な心情に満ちたものとなる。こうした葛藤が、本談話を焦点の欠けた、一読して理解しにくい曖昧な文書にしたのではなかったか。

追伸・昨日・10月7日、朝日新聞夕刊で、各雑誌(諸君・正論他)が安倍談話についての評論を掲載しているらしいことを知った。興味のある方はそれらについての内容・印象を教えていただければ、幸いである。


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