2015年4月16日

4月16日・木曜日。うす曇、陽ざし強く、汗ばむ。

では、往時の先進資本主義は、実際、どう特徴付けられるのでしょう。御著では、生産と労働の科学的管理を提唱したテーラーシステム、その実践版とも目されるフォードシステムが言及されます。ただ、その実現には莫大な資金需要とそれを満たす金融制度、株式市場の整備、発展が不可欠です。起業家が生産、資本調達、経営管理を一手に引き受ける、いわゆる産業の将帥たちが活躍する時代は疾うの昔となりました。今や所有(資本)と経営の分離の時代です。これは一人格に統合されていた機能の分化であり、さながらそれは原蓄過程で独立生産者層の資本家階級と労働者階級への二極分解を想起させます。

いずれにせよ、ここに両者の利害の対立が生じます。前者は投資に対する最大限の利益配分(配当分)を求め、後者は利潤追求もさることながら、企業自体の存立、その発展をこそ第一義といたします。その傾向は第一次大戦前後となれば、国内外の競争激化により、一層顕著となりましょう。経営規模は拡大し、企業内の制度化、官僚化はさらに進行して、経営者といえども勝手に恣意にまかせた決定、投資は難しくなりました。企業家の冒険心は殺がれざるをえません。そうした企業の変成の次第が「自動経済(autonomeWirtschaft)」(ラーテナウ)、経営の「精神化(Vergaistung)」(ゾンバルト)として描かれております。対して、経営から分離された株主たちの関心は、配当の極大化ですが、株主総会の権限がやがて少数の大株主(機関投資家)に握られ、大衆株主は権限の外に置き去りにされると共に、所有と経営の権力関係は後者にシフトしていく。その傾向は戦間期にいたって、特にドイツにおいては政治の介入のもとさらに強化されました。ナチの権力奪取(1933年)以降は、その独特の指導者原理と相まって、これが強力に推進されたからです。そこでは、社会的、国家的な利益の前に、私利の追求は抑制されるべきことが、声高く宣せらたのであります。

ともあれ、このような形でマーシャルの騎士道精神、ケインズの自由主義の終焉が実現されると言うのは、後の時代から見れば、なにか皮肉めいてみえるのは、私の誤解でしょうか。そして、ナチスの国家体制、ここではその経済政策およびその基礎たる経済思想は往時のわが国の政府、軍部、高官、学者達にいかなる影響を及ぼし、それらがその後のわが国の戦時経済政策、社会体制さらには戦後のそれにどう引き継がれたかと言う射程から、比較経済思想史なる手法を持って論ぜられてまいります。かかる問題視覚そのものが壮大であるばかりでなく、その検討作業は考えるだけでも気の遠くなるおもいがいたします(以下次回)。


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