2019年10月16日

10月16日・水曜日。曇り。

 

まず、この度の台風被災地の皆様方に心よりお見舞い申し上げたい。今なお曇天から漏れ出しそうな雨は、細やかであっても被災地には恐怖である。「雨よ、降るな」と祈るのみ。これは、他人ごとではない筆者自身の祈りでもある。

13日未明の豪雨はわが家周辺の道路を冠水させ、栗橋辺りでは利根川の決壊が危惧された。市に問い合わせれば、決壊は春日部一体で1,2mほどの冠水となる事から、現在避難所を準備中である、整い次第避難勧告を出すとの事。冗談じゃない。深夜3時、体調不具合の上、30㎝余りの水路の中をかなり遠方の避難所までどうするんだと、暗然とするばかり。同時に被災者の方々の思いに繋がった。結局、決壊は免れたが、単に幸運であったに過ぎない。次はどう転ぶか分からない。今後も温暖化は続き、しかも悪化しそうだと言うのだから。

都内では、多摩川の越水、内水氾濫(川の水位が上がり、下水道を逆流して市内冠水を惹き起こす事)を来たし、周辺地域を困窮させた。こうした事態は豪雨の際には珍しいことではなく、20年ほど前であったか、下水道から河川に放流された汚水が逆流し赤羽駅近辺を汚臭が覆ったことがある。また、19世紀末のベルリン市では、下水道の整備によって汚濁、汚染から解放されるが、豪雨の折、シュプレ-川に放流された汚水の逆流の被害を受けた。一つの文明の利器が、思いがけない形で人々の生活を侵害する事例である。

恐らく、ある技術に潜む全ての不備や欠陥を予測し、予防することは人間には不可能であるに違いない。航空機や関連施設の発展の歴史が示すように、一つひとつの失敗に気づかされ、改善される他ないのである。進歩とはその積み重ねの結果であろう。だから技術の進歩は何処までも未熟であり、完成はありえない。その事をシカと心に留め、安心してはいけない(その意味で、原子力関連の技術は不幸である。事故は時間的、空間的に甚大に過ぎ、失敗は許されない。だから失敗は在ってはならず、最後は無いこととされて「安全神話」に繋がった。かくて改善の道は絶たれる他はないだろう。これについての畑中洋太郎氏の言は不気味である。「万一の際に、格納容器を守るために内部のガスを外に逃がす『フィルター付きベント』の実施テストは義務付けられていない。放射性物質を外部に出すからという理屈です。日本の原子力業界は今も安全神話という特有の『気』に包まれているように思います」(朝日新聞・朝刊・「失敗を直視せよ」・2019/10/18)。

だが、直接その被害を被った人々は不幸の極みである。罪とがもなく、突然、災難に叩き落されるのである。この度の事例で言えば、浸水のために武蔵小杉のタワーマンションで生じた電気系統の破綻がもたらした生活上の困苦は、誠に同情を禁じ得ない。報道にもあったが、何故自分たちだけがコンナ悲惨に遭わなければならなかったのか。これに答えられる人は恐らくいない。誰もがこのような惨事に見舞われる可能性があるからである(本日はこれまで)。


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