2017年11月13,24日

11月13日・月曜日。晴れ。風穏やか(例の通り、前回の文章やや手を入れた)。

11月24日・金曜日。晴れ。先週末、大学の仕事で沖縄に行く。1泊2日の旅であった。若者の多くは半そでの軽装であり、夜半、帰京すれば、寒波。列島の長大さを改めて知る。

イシグロは「記憶」を説明するのに、本作に限らずスナップ写真の例を引く。焦点は鮮明だが、その周辺はボヤケル。思い出す映像は鮮明であるが、しかしそれがどの脈絡であったかは定かで無い。こうして組み替えられる記憶は、その度に本来の意味を少しずつ変えることになろう。記憶の変容、捏造への一歩であろうか。

記憶とは、ごく簡単に言えば、まず頭脳に刻まれた過去の経験を時に応じて思い起こしたり、これを使用したりする過程、その機能を包括的に示す言葉である。その過程や機能はそれぞれ記銘・保持・再生として区分される。つまり、ある事が脳に刻印される=記銘され、それが保存される=保持され、時に応じて意識化される=再生される、そうした過程・機能である。これらの過程は基本的に、誰にとっても同一のもので、相違はその範囲や種類や数量にあるようである(Britannica Concise Encyclopediaより)。さらに、これもまた誰でも知っているように、すぐに忘れられる短期記憶と、忘れようにも忘れられない長期記憶の別があり、そのメカニズムもそれなり説明されるが、ここでは割愛しよう(そんな難しいことは私には説明できないから)。ただ、時間と共に何でも忘れてしまうという訳ではなく、逆に鮮明になる事柄もあるということも多くの人の知るところである。

いずれにしろ、記憶の変容の免れ難いことは、今更言うまでもない。にもかかわらず、記憶が人間にとって重大な意味を持つことは、これもまた論をまたない。第一に、自分が自分として意識され、保存されるのは、恐らく記憶をおいて他にないからである。昔の写真を見て、己の変容ぶりに今更ながら呆然とする日々ではあっても、にも拘らずかつての自分との連続の中に今があると得心し、安心できるのもこの記憶の故であろう。記憶喪失者を主題とする映画や小説に中で、一度もそんな体験のない者であってもこれに恐怖し、不安を覚えるのは、すでに事の重大さを知っているからではないだろうか。それは自分の立っている土台の崩落、瓦解にも例えられる程の不気味さであろう。

しかし、そうなると、ここで奇妙な難問に逢着するような気がするが、ドウであろうか。過去から今に至る自分を保全する最大の縁は記憶である。しかしその記憶は大小様々に変容され、時に捏造さえされているそうした代物だという訳である。ではそんな記憶に包まれる自分とは、果たして一体何者なのか。自分はこうだと信じてはいるが、それはやはり捏造された別の何者なのかもしれぬ。これもまた不気味な話ではないか。確かに、記憶を訂正し、再生を促す写真や手紙、残された無数の記録があるが、しかしそれとて配列、脈絡を変えれば、全く別の意味や図像を呈するのは、これまた誰もが知るとおりである。イシグロは記憶のそんな危うさをそっとした、何気ない文章の中に忍ばせるのである。イジワルな人だ。

ところで、記憶は個人のモノだけではない。民族や国家の記憶もある。となれば、これはもはや無意識の変容などと言う無邪気な話ではなく、アカラサマナ捏造、偽造には事欠かない。そんな手口の一端は、ここでも帝銀事件や下山事件の際に見たところであり、ましてや国家の威信が賭かれば際限はなかろう。そして、この問題に直結するのかどうか自信もないが、イシグロは『忘れられた巨人』の中で、民族の記憶の問題を扱う。今回の話はこれを論ずる導入として始めたものであったが、例によって脱線が脱線を呼び、主格が転倒してしまった。もはやこれを扱うエネルギーも失せた。よって、この話はこれで仕舞いとしよう。

2017年11月7日

11月7日・火曜日。本日立冬。鶴巻南公園のユリノキの大樹、見事に黄葉す。

カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞に触発されて、この半月ほどをかけ、遅まきながら五点の作品を読んだ(全冊ハヤカワ文庫版による)。前から氏の令名と主題には惹かれるものがあり、いつかはと思う内に日延べとなっていたのである。

初の長編小説と言われる『遠い山なみの光』は私には難解で、池澤夏樹氏の解説により何とか追いついたような気がする、そんな読書感であった。当然面白みもない。『日の名残り』には大いに惹かれた。ヒトラーに引き回されるヨーロッパ列強の外交交渉に加えて、その裏舞台となる政府高官の私邸で展開される極秘の会合、会食の在り様が執事の目線から丹念に描かれ、恐らく表舞台には現れない高度に政治的な意思決定の過程の一端を教えられる。その一点だけでも私にとって興味深い作品である。同時に、往時の英国貴族の広壮な邸宅の運営、主人と執事、そして彼と他の使用人らとの間の厳格な階層関係やそれぞれの職務についても同様である。

このような外交の舞台をしつらえ、微妙な問題を美味な飲食と優雅な雰囲気の内に溶け込まし、事の速やかな成就に心を砕く。これこそが第一級の執事の心組みであろう。であれば、彼は心酔する主人が担う国家的な任務の遂行のために、己を捨て全身全霊をもって仕えねばならない。同じ屋敷に仕える父親が、たとえ死の床にあろうとも、心を煩わせずに仕事を果たす。これぞ、彼の求めて止まぬ執事の「品位」なのである。そして、主人へのそのような奉仕を通して、自身の国家や歴史への貢献を自負し、深い満足を覚えるのである。であれば、彼には、自らの個人的な愉しみや娯楽はありえず、彼に心を寄せる女中頭の思いにも気付かぬまま、早や「名残り」の日々を迎えてしまった。

物語は、主人公である執事による彼女への回想と邂逅を求めての旅路から始まる。つまり、本書のテーマは執事としてこれまで過ごしてきた人生の「記憶」への旅路でもあった。彼がすべてを擲って尽くした主人は、戦争が終わってみれば、ヒットラーの都合のいい手駒でしかない素人外交官にすぎず、ドイツに協力した戦犯にも等しい二流の人物であった。とすれば彼の人生は、彼の思う栄光に満ちた、生きるに値するものでありえたのか。こうして実人生と記憶との軋み、そこに生ずる両者の歪み、いやあの時は「そうではない、こうであった」との記憶の捏造や変容、しかし今更取り返しのつかない、何とも痛恨の痛みが己の生の奥底に蹲る。そうした人生上のシクシクと刺すような記憶の痛みは、特に名残りの日々を迎えるような歳になってみれば、誰もが覚える一事であろう。イシグロはこのような逃れ難い記憶の残酷さを抑制的な語り、淡々とした筆致で突きつけてくるのである(以下次回)。