2017年8月25日

8月25日・金曜日。相変わらずの蒸し暑さなるも、鶴巻公園のプラタナス、唐楓の葉僅かに色づく。秋近し(前回の文章、やや手直しする)。

平沢には魔が取り憑いたのであろうか。三菱銀行でのほんの一瞬の出来心が、その後の命運を決した。名刺の件も、考えてみれば馬鹿馬鹿しい限りである。22分の1が、何故平沢に絞られたのか。名刺にこだわるなら、山口姓であろう。この注文主こそ真犯人ではないのか等々。それ故、捜査本部もそこそこの尋問で彼を釈放するはずであった。

先にも言ったが、本部の線は別にあった。その理由は犯行の手口そのものの中にある。閉店直後、椎名町支店を訪れた男は、防疫班の腕章を付けており、支店長に厚生省技官の名刺(犯行後持ち帰られた)を差し出しながらこう切り出す。「近所の相田宅から使用する共同井戸がもとで4名の赤痢患者が出た(これは事実であった)。その家人が本日、当店で預金を引き出しているのが分かった。追って、GHQのホートク中尉の指示で消毒班が来るはずだが、その前に予防薬を飲んで貰いたい」。こう告げて、17個の湯飲みを用意させ、二瓶の薬液を取り出した。まず、第一薬をそれぞれの湯飲みにピペットで二回ずつ入れると、一個の湯飲みを取り上げ、飲みかたを指導する。これは歯に触れると琺瑯質が溶けるほど強力であるから「舌を前に出して薬を包み込んで、喉の奥に流し込むように一気に飲」み、あとで中和剤を飲んで貰う、と言いながら自ら飲み込んだ。

16名はそれに倣って、薬を飲むと、口の中がヒリツキ、争って中和剤なるものを飲んだ。それでも口中は収まらず、嗽の許可を求め、洗面所、風呂場へと駆け込むが、途中バタバタと折り重なるように倒れ込み、悶絶すると共に青みがかった液体を吐きながら息絶えた。その間、2分ほどである。この凄惨な場面は、映画からもよく分かる。

ここで注意したいことは、先ずピペットで16個の湯飲みに微量の致死量を正確かつ迅速に配分する技術である。犯人も同じ薬を飲んでいるのである。だから周囲の人々は疑念も持たず指示に従った。一歩間違えれば、彼も同じ目に合うはずであった。これは特殊の訓練と豊富な実践を経なければ出来ることではなく、テンペラ画家の平沢の及ぶところではなかろう。

次いで、死亡に至るまでの状況からみると、殺害の薬物は青酸化合物に違いないが、青酸カリとは考えにくい。青酸カリの場合、服用後ほぼ即死に近く、2分間の猶予はないそうだ。こうした遅効性の薬物は、スパイにとっては殊に有用であった。逃亡の時間が稼げるからであり、誰が仕掛けたかは直ちに判明しがたいからであろう。であれば、そうした毒物の開発が急がれたが、わが国の場合、登戸研究所で開発され、731部隊も中国で実験したという青酸ニトリールがある。帝銀で使用されたのはこれではなかったかと部隊関係者は見ていた。あの薬の飲ませ方は、含んだ薬を思わず吐き出させないようにするためであった。石井四郎もあれは自分の部隊の誰かではないかと言ったという。

警察はその線を追求し、すんでのところまで迫っていた。しかし、捜査はその直前で頓挫する。それは何故か(以下次回)。


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