2017年2月7,9,14日

2月7日・火曜日。快晴、しかし寒風強し。2月9日・木曜日。雪舞う。

2月14日・火曜日。晴れ。寒気やや緩む。本日、バレンタインデー。ただし、チョコレートは今のところ義理も無し。

今となっては古い話(?)になるが、今年の元旦、年頭の読書はソルジェニーツィン『収容所群島 1918-1959 文学的考察』(木村 浩訳・全6冊・新潮社文庫)にしようと決意し、以来、それはモウ酷い目にあっている。現在ようやく5分冊の半ばまでたどり着き、今月中にはナントか読了になるはずだ。

全冊で恐らく2800頁は下らぬ大冊である。かのロシア革命(1917)によって、レーニン指導下のヴォルシェヴィキが政権を樹立して以来、いわゆる政治犯が蒙った、地獄にも比せられる「収容所」生活の惨状、これを生み育て指導したスターリンや政府当局の無慈悲、残虐性の告発(著者はこれをヒトラー、ナチス以上の暴虐と断じている)、そうした最中にあって、命を賭して当局と闘い、真の人間性を維持した教父や囚人たちのいたことを称賛する。ここには、著者のマルクス主義への痛烈な批判とキリスト教への回帰が認められるが、こうして彼は人間の魂の究極的な救いの方向を示唆したのかもしれない。

では、彼らが嘗めた惨状とは如何なるものか。ここではそのスケッチを示すことすら不可能であり、ご関心の向きには是非本書を手にとって頂きたい。以下は筆者の勝手な摘記に過ぎない、と言っておく。男女を問わず、政治犯として目を付けられたが最後、不当な逮捕と裁判により(あるいはソンナ手続きもないままに)収容所送りとなる。そこでは人力に余る過剰労働とノルマの強要、監視人の殴打、飼料とも思しき食料、それさえの横奪、極度の飢餓・不眠・不潔・過密、劣悪な住環境、警備兵による理由なき銃殺・殴殺、刑期の勝手な延長(十年から二十、二十五年という具合)等々の告発がどの頁の後にも延々と続き、しかも言葉を失うこの惨状が零下20、30度の酷寒の地で日々繰り広げられるというのである。かくて病人はおろか健常者でさえ、一、二か月の内に命を落とし、ほぼ40年間で6千万人ほどが殺戮された。人の命をむごく巨大なおろし鉄で摩り下ろすような惨状が浮かぶが、著者はこれを「肉挽き器」と呼んでいる。筆者には、本書に付き合うこと自体もはや拷問に近く、今なお非常な疲労を覚える日々である。

さて、著者は政治犯として逮捕後、各地の収容所に回され、10年間の刑期を努めたようだから、自らこれらの惨状を体験し、目の当たりにしたばかりか、当時ロシア全土に「癌腫」のように拡散していった他の収容所での惨劇、弾圧、理不尽の報告を踏まえて(その協力者は227人ほどになる。加えて、悪名高い白海運河建設に駆り出された囚人たちの奴隷的労働の過酷、無慈悲を指弾するどころか、英雄的労働として賛美したマキシム・ゴーリキを含む36人のロシア人作家らが行った権力への追従、加担が逆照射され、これを著者はロシア文学の死滅と断じた)、釈放後、本書を秘密裏に書き上げた。それに懸けたほぼ十年に及ぶ歳月には、収容所時代の惨状を詩形に換えて頭に叩き込んだ記憶を土台に、徹底して分散管理された協力者たちの貴重な報告や資料(これらが当局に露見すれば、その没収は当然として、累は彼らにも及びかねない)を小出しにしながら書き継いでいかなければならない苦心があった。これが事実とすれば、驚嘆すべき記憶力、精神力と言わなければならない。かくて本書の草稿は1967年、一応の完成をみるが、その後ロシアでの出版の機会を求めてか、地下深くに保存されざるを得なかった。にも拘らず、その存在が当局の知るところとなって、本書の執筆に深く協力した一女性が厳しい取り調べの後、自死するという悲劇までもたらした。

本書の邦訳は、原書の第一巻がパリで1973年出版されたその翌年に出始めたから(訳者解説によれば、著者が訳者を指名し、新潮社より6巻の単行本として出版された。その際、著者の求めによって時を移さず文庫版も刊行される)、すでに43年前に本書はわが読書界では知られていたことになる。それどころか、早や1962年には『イワン=デニソーヴィッチの一日』(1970年ノーベル文学賞受賞)が、新潮社より木村 浩訳で出版されており、この時点ですでに収容所の存在とその実態は『群島』ほどに徹底的ではないにしろ、我々には周知のところであった。

しかし、往時のスターリン政治の暴虐性は、すでに1956年2月、ソ連共産党第20回大会におけるフルフチョフの秘密報告によって一切白日の下に曝されていた。ちなみに、本報告が中ソ論争から両国の対立を呼び、諸国の社会主義陣営に大混乱を来たしたのみならず、全世界に驚愕と激震を齎した事情については、さし当り志水速雄『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』(講談社学術文庫204、1977)の名訳と解説を参照されたい。

これを知れば、ソルジェニーツィンの本書もあながち誇張とばかりは言えない説得力を持つ。ただし、ここで盛られた個別的事実の集積と惨たらしさ、人面の裏にひそむ底なしの貪欲と悪意、いかなる獰猛な獣といえども到底及ばぬ残忍さ、執拗さ、苦しみ悶えつつ死ぬる者へのサディスティックな喜び、つまり悪鬼とはこれを言うか、それは我が身内にも潜むかという恐れ、を突きつけられるのである。これが文学作品の力であろうと思う。


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