2015年9月2日

9月2日・水曜日・久方ぶりの晴れ。

談話が発表されてから、早や半月。その間、メデイアその他で様々に論評され、政府はそれらを含め、さらに諸外国の評価、特に中国・韓国の受け取り方に関心をよせていた。幸い両国とも、談話に対し不満を漏らしつつも、かなり抑制した表現にとどめ、これを何とか受け入れた。よって、この談話の故に、更なる関係悪化を招く事態だけは免れた。これは、わが国にとって実に有難いことであったと思う。ただそのことによって、談話の内容が認められた、と看做すことだけはできないだろう。それは、両国が漏らした不満の内容を少し立ち入って読み取ればハッキリしているし、なによりも中国で現在行われている対日戦勝70周年記念祭を見れば疑いようもない。この度の両国の抑制的な対応は、両国内の政治・経済的状況がこれ以上の対日関係の悪化を許さない、という点に求められるのではないか。

さて、以下は、我がささやかなる安倍談話の印象記である。何かの参考になればとの思いで記す。私の気になったのは、以下の3点である。

1.確か首相は、談話中の文章を切り取り、それを論ずるのではなく、談話を全体として読み、その真意を汲み取って欲しい、との願いを表明していた。誠に、その通りであり、異論はない。ならば、伺いたい。この度の談話の眼目は何処に在るべきであったか。談話には前史があった。勿論、村山・小泉談話である。首相は全体としてそれを受け継ぐと言われた。そして、そこでのキーワードは、「植民地支配・侵略・痛切な反省・心からのおわび」であり、それが談話中に込められるかどうかが注目されていた。これらの言葉が文章全体の中に適切に配置され、一読の後、なるほど現総理はそれ以前の談話を踏まえ、先の大戦以前の我が国策を誤りと認め、それを痛切にわび、その深い反省に基づき今後も日本の平和主義を堅持すると、確かに表明したと安心できるものでなければならなかった。

この基準に即してみれば、本談話はどうであろう。確かにそれらの言葉は談話中に配置され、だから表明されてはいるものの、その文脈は外され、主語が曖昧になってしまった。例えば「侵略」は他の戦闘行為と一緒くたにされ、「国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」、と一般的な平和主義に解消されてしまった。思うに、これでは戦争はイケナイ、だから止めよう、と宣言したに過ぎず、こうした言葉から戦争が止んだ験しはないのである。歴史的事実の認識とはそう言う事ではない。それは「誰が、何時、何処で、何を、どうしたか」と言う徹底的に個別、具体的な事柄の認識である。であれば、ここでの「侵略」は、こんな一般的な意味での侵略にされてはならない。これは一つの遁辞であり、これではこちらの誠意が疑われても止むを得まい。これに対して我々が誠実であろうとすれば、日本が朝鮮半島、中国、東南アジアに侵略し、その結果この地域の人々に対し取り返しのつかぬ破壊と惨苦を齎したと、率直に認める事である。そして、これらの事実を認める事は、必然的にその事への責任を負うと同時に、かかる悲惨を受けた人々への痛切な謝罪に結ばれることにもなる。

これは我われ日本人にとっては、一つの大きな恥辱である。誠に辛く、出来れば避けて通るか、無いことにしたい所業であろう。しかし、私は思う。キリスト者が全てをみそなわす全能の神に額ずき、己が所業の一切を告白し、神の許しを得ようとする告解とは、いかなる意味か、と。告解者はその時、その身を深い恥辱と悔悟の業火に焼かれ、かくて始めて再生への歩みうるのだろうと思う。煉獄の火とは、これを言うのではないか。また、歴史に誠実に向き合うとは、そういうことであろう。であればこそ、再び同じ過ちはすまい、と誓えるのではないか。

しかし、総理の物言いには、そのような意識は希薄にみえる。それは、責任の所在を不分明にする。我々は悪くない、と言いたがっているようにみえる。すでにこれは、談話冒頭において見て取れる。19世紀、西洋世界に発した植民地化の圧力が遮二無二日本の近代化を促し、それが日露戦争を出来させた。そしてその勝利が、一方でアジア・アフリカを勇気付けた。だがこうは言えても、その後の朝鮮半島や台湾の統治の問題は不問にされるのである。次いで、第一次大戦後の世界恐慌が世界経済のブロック化を呼んで、それが日本を已むなく孤立化させたとの指摘が続く。ここにおける主語・主体は常に日本を取り巻く他者であり、わが国はその犠牲者のごとく振舞わざるをえなかった。そのように言いたがっているようにみえる。こうなれば、我々にも多少の責任はあろうが、このような立場に追い込んだ他者の責任もあるだろう、と言うわけである。だが、これに対しては、日本が日本の意思を持って、自ら朝鮮半島、満州に進出して行った、という歴史事実はどう認識されているのか、との問いが提起されざるをえまい。そして、談話をこのように読んでみれば、次の論点である「挑戦者」の意味も何がしか理解されようというものである(以下、次回)。

2、「挑戦者」。


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