2015年7月23日

7月23日・木曜日。曇り・連日の猛暑、やや和らぐ。

前回で説かれた主張によれば、事象はすべて原因・結果において捉えられ、その関係は必然的である、とする立場に立ち、それは決定論的と言われるものである。この決定論にもギリシャ以来の歴史といくつかの流れがあるはともかくとして(こんな問題は、とても私には論じられないから)、これは自然科学の説明原理としては、極めて説得的であり続けたのである。だが、20世紀初頭になって、量子力学が確率概念を登場させるに及んで、ようやく科学の舞台から退場させられた。そこでは、本来分割不能とされていた原子のなかでの中性子、素粒子、陽子・陰子の構造と振る舞いは一義的、決定論的な関係では捉えられなくなってきたからである。

以上は、われわれの日常生活には直接関わる世界でないことは、いうまでもない。しかし、「真理は細微に宿る」。原子の説明原理は宇宙のそれに繋がり、生命の起源の問題を解き明かすかもしれない。近年の古生物学の知見によれば、「歴史的ないし進化的発展の連鎖は完全に一貫しており、事後的には説明できる、しかしおこり得る結果についてははじめに予言はできないというのである。なぜなら、もし同じ進化の路線が二度目に設定されたとしても、何らかの初期の変化があれば――たとえいかにささいな変化で、初期には一見何の重要性もなかったとしても――「進化は根本的に異なった水路に滝の水のように流れ込む」からであった。この方法の政治的、経済的、社会的な帰結は遠大なものになるかもしれない」(E・ホブズボーム著河合秀和訳・20世紀の歴史・下378頁・三省堂)。ここに、「出来事は偶然ではないとしても、ある特定できる原因から生じる結果は予言できない」ことは明かであろう。

私自身でもよく分からない事を、こうではないかと勘グッテ書いているのだから、読み手が戸惑うのもやむをえない。ただ、私がここで言っておきたかった事は、正確精密を身上とし、堅固な土台の上に打ち立てられたと思われる自然科学の認識も、その土台は案外ヤワであるのかも知れないということである。むしろ、こう言えるのかもしれない。19世紀までは、ニュートン以来の力学、物理学は生活上の諸事象をほぼ完璧に説明しえ、予測可能であって、その信頼は疑うべくもなかった。カントはそうした精密性に感嘆し、それに相応しい哲学的原理の確立を目指した様であったし、19世紀半ばにJ・S・ミルが精密自然科学に匹敵しうる経済学の樹立のために『論理学体系』を著したのもそうであった。思えば、マルクスが史的唯物論に立って資本主義から社会主義、共産主義への移行を必然法則として信じたのもこうした自然科学観があったからであろう。だが、認識の進化は物質の堅固さを奪い、まったく異なる物質観を生むに及んで、自然の見方のみならず、「政治的、経済的、社会的」な観念まで変革したのである。まさに「その帰結は遠大」であった。


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