2015年4月3日

4月3日・金曜日・風強く花舞う。桜はこれにてシマイか?

前略、風ゆるみ、ツルリとしていた桜の枝も大分ふくらみ、散歩がてらに木々を見上げて、こんな駄句を一句。

  寒風を耐えて膨らむ蕾あり  みつお

といった手紙を書き始め、以降、日々の草草に紛れて、さて続きをと筆を執るころには、蕾みどころか、早や花の散り際となってしまいました。ご無沙汰しておりますが、その後いかがお過ごしでしょうか。小生、退職してまる一年となります。現在、友人の会社の名ばかり役員として、週一度、早稲田に出向いてパソコンの手ほどきを受けるほかは、概ね春日部に蟄居し、か細い読書の日を過しております。それを思えば、リュックに本を詰め込み、毎日、大学図書館にこもって、孜々として研究に打ち込まれる先生には、心底頭が下がります。能力の差、といってしまえばそれまでですが、やはり決定的な何かが違うと諦めるほかはありません。

さて、さきに先生から頂戴した英書、Europian Reformism、Nazism and Traditionalism.  Economic Thought in Imperial Japan、1930-1945(Peter Lang2015) を先月初め己が定めた箇所を何とか読み終え、ここにささやかな読後感を綴って御礼とさせていただきます。と言って、早々のうちの、かつは雑駁な読書であれば、意に満たぬピント外れなものになろうことを、予めお許し願います。

すでに本書は日本語版(原書?)をもち、その英訳版として刊行されましたが、しかしそれは単に日本語版の逐語訳ではなく、わが国の当該問題に必ずしも通じていない欧米研究者らを慮って、枝葉を刈り取り、あるいは補足し、彼らの理解の便をはかったとは、謝辞にあるところです。かくて、文脈が明確となり、主張される映像はクッキリと刻まれたように思われます。しかし、何かを取るは、何かを捨てるの譬のとうり、日本語の文章に込められた常に変わらぬ先生特有の、あの粘り強い陰影にとんだニュアンスが削がれるのは止む得ないことでした(もっとも、こう感ずるのは、我が薄弱な英語力のせいであって、読み手には十分その意が伝わっているのかもしれません。いや、キットそうなのでしょう)。

さて、以下では要らぬ蛇足ながら、話の接ぎ穂をえるために、少しく私の文章を入れさせて頂きます。19世紀末には、資本主義の在り様はそれが誕生した頃とは全く異なる顔貌を見せつけるにいたりました。市場のプレーヤーである企業規模とその構造、生産性や支配力、市場競争の熾烈さ等々は、その何れをとっても前世紀のスミスに特徴的にみられる、調和的で何処か牧歌的な経済社会の佇まいを完全に消滅させてしまいした。たしかにそこでは、マルクス、エンゲルスが『共産党宣言』冒頭で、その生産力の発展は人類史上初めて成し遂げられた資本主義の成果だと称えざるをえなかったほどの、目覚しい進歩が達成されたのも周知のところです。ただ、そのような急速な進化と拡大は、そこに孕む矛盾をいやが上にも苛烈、過酷なものへと追い込んでまいりました。そして、これら諸問題に対して、スミス以来の古典学派の経済学ではもはや立ち行かなくなるのは、これまた至極当然なことでした(以下次回)。 


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