2014年11月27日

11月27日・木曜日・二日ぶりの晴天。それだけで気分は良し。

拝復、過日はお手紙並びに御著『ショーペンハウアー』(清水書院)をご恵贈下さり、有難うございました。その折私には読みさしの本があり、その読了の後、本書に、と思い、本日までお礼が遅れてしまいました。ほぼ一週間をかけての読書でした。退職後の生活とはいえ、草草の日常に取り紛れ、読書専一にはいかぬものですが、それにしてもこの遅読(広辞苑他にはこんな言葉はないようです。でも速読は採録されていますから、この語も良しとしましょう)。これは私にとっての一大痛恨事で、殊にこんな商売に踏み入った(私の場合、踏み迷った)ものとしては、まさに致命傷です。かてて加えて、最近では、こうして後生大事に読んだ内容を日ならずしてワスレハテルのですから、処置無しです。例えば、私は十数年前、ショーペンハウアーの主著を西尾訳でたしかに読んでいたはずなのですが、その面影は痕跡すらなく、この度全く新鮮な思いで彼に出会った次第です。以下では、そんな頭が紡ぎ出した朦朧たる読後感で恐縮ですが、これを記して我が御礼とさせていただきます。

まず、私には大変面白いご本でした。ショーペンハウアーノ人となり、とくに彼の少年期の古典語学習期を犠牲にしての、2年におよぶ裕福な父親との豪勢な大旅行、そんな幸福なはずの最中にも、人々の人生上の苦悩を読み取る感性、あるいは母との確執などが辿られます。そうして、それらがやがては彼のペシミスティック(これを私は、先生にならって最悪観的、と読ませて頂きます)な哲学の素養となった次第が、自然に理解されます。商人として実務に着いたことは、彼の哲学を単なる思考遊戯に落とし込まず、常に確証される堅固な土台の上に基礎づけました。それはまた、分かりやすい比喩と文章を鍛え上げ、読者を厭きさせぬ武器となりました。これだけでも、彼の魅力は十分です。彼の矜持と偏屈、それゆえの悲哀と孤独がこれに加わります。そんな彼の満たされぬ生活の中で、ゲーテとの交流は私にとっても救われる一齣でした。

さて、かような誰にでも書ける感想はこのくらいにして、そろそろ彼の哲学についても一言しなければなりません。これが問題。わが無知を曝け出すことになるからです。ともあれ、本書における我が興味は、カント、ショーペンハウアー、ニーチェの思想的関係とその変成でした。『意思と表象としての世界』という表題そのものが、すでにカントの認識論をベースにして構想されたことを示します。この世の事は認識者にとって、物自体の表れ、現象、表象として捉えられるが、しかしそこで捉えられた事物は物自体ではない。だからカントはその認識を現象学だ、といったのだと解します。しかもその認識は、後の新カント主義者に鮮明ですが、認識者の主体的な関心から切り取られたものとなります。こんな事を先生にダラダラたどっても始まりませんが、我がお浚いとしてもうすこし言はせてください。その認識はしかし、単なる経験論に留まる限り、彼の認識に過ぎず、普遍的な妥当性はもちえない。これはヒュームから教えられたことでした。では、どうしたら認識の客観性は保証されるのか。ここに時間・空間の純粋直感、カテゴリーなる装置を導入してその条件が整えられ、そして純粋統覚なる意識によって統合されるというのでしょう。今はこの問題に踏み入ることは出来ませんが、要するに物自体から発する経験的事象、彼の場合、表象、を理性・悟性の思考形式を駆使して認識を意味あらしめる。それゆえ、この認識は経験と理性との統合のうえに成立します。まさに「表象なき理性は虚構であり、理性なき表象は盲目である」というわけです。彼の理性批判は、表象として表れる世界は認識しうるが、それを超えた世界の認識を不可能とし、ここに理性の限界点を措定した。ここに彼の『批判』の意味があるとされたのだと思います。

カントのこの認識論は後の経験科学、とくにドイツ語圏の場合、決定的な影響力をもったようです。ここではユクスキュル『動物から見た世界』、メンガー『社会科学、殊に経済学の方法に関する研究』の二著をあげさせていただきます。前者では、すでにご案内のとうり、同一の環境世界に対して、人間と蝶は全く異なる世界を認識している次第が論じられます。

蝶の関心事は生存と種の保存のみであり、蝶にとってそれが餌か否かおよび天敵の識別(生存)、そして交尾の対象となりうるメスか否か(種の保存)。それのみが認識できれば、他の世界は蝶にはどうでも構わないようです。こうして彼の振る舞いが説明されます。またここで面白いのは、オスに取り、相手にすべきメスの認識は一瞬のようです。受精したメスには、オスは一顧だにしません。この件には、我が行状を突きつけられる様な思いです。また、人間のオスにこれほどの潔さがどれほどいようか、とも思わされます。さればこそ、人間界ももう少し単純かつ平和になれるというものですが?ともあれ、このような動物行動学は今でこそ当たり前の事のようですが、確か19世紀末であったか、モウ忘れましたが、それが発表された当時は、生物学者は誰も相手にしなかった、とは日高敏隆の解説でした。学問的には、動物行動とは動物の構造や組織が遺伝学的、決定論的に明らかにされてこその事であり、そこに環境、しかも蝶の見える環境もまたその要因だなどとは、一体なんだ、これは学問ではない。そんなところでしょうか。日高氏は高校生の頃、本書の翻訳に出会い、多大な影響を得たように記憶しております。それが数年前、氏自らの改訳にも繋がったのでしょうが、かくて氏はわが国屈指の動物行動学者になられたのは、ご存知のところです。ともあれ、ユクスキュルは自らのこの研究をカント哲学の応用であると宣言しているのが、私には鮮烈でした。そして、メンガーについて。大分長くなりました。しかも疲れてきました(わがパソコン歴はこの4月からの事で、キーを打つだけで目一杯ナ物ですから)。そこで、彼については、割愛します。

しかも、この手紙自体をここで止めたいのですが、それでは何の話か分かりません。ただ、荒っぽく飛び飛びに行きましょう。ショーペンハウアーはカントの物自体を意思とした。世界は、彼によれば、この意思の発露として捉えられる。本書から、私はそう理解しました。そこから彼の哲学は、俄然、独創性を帯びたものとなり、生き生きしてまいります。意思とそれに支えられた生が何ゆえにペシミズムに堕ちねばならぬのか。生とは何より欲求、渇望であるとすれば、常にそれは何物かを我が物とせざるを得ない。それは奪いとり、争うことに他なりません。この世界は夙にホッブスの思い描いたことですが、資本主義の成立とそれが生み出した科学技術の世界、時代では、一層の拍車がかかって、現在、状況は危機的なものであることは、誰の目にも明らかです。曰く、格差と環境問題、人心の荒廃、核技術の高度化、全面戦争の危機等々です。

しかしショーペンハウアーは、こうしたペシミズムに絶望しませんでした。先生が造語されたという「共苦」の教えです。意思は元、一つであった。人は皆、この同じ意思を分け合い、共有されていると言われます。ならば人々は生きるに当って経験する、否、舐めねばならぬ悲しみ、苦しみ、孤独と絶望、そして死への恐怖の様々を、みな共有し、ここに人は共々に助け合い、支えあう共助の意識、思想を育む道もあるだろう。先生は、これぞショーペンハウアーが現代に送り届けたメッセージであるとされました。賛成です。お手紙に記されてもおられます。「この書は私が若い頃書いたものですが、内容は少しも古びることなく今の時世にもぴったりと思っています」。最後に、一つ気になっている点がございます。意思は何処から来たのか。事の終わりも始まりもない、真の始原とすれば、それは神の別称になりそうですが。彼はスピノザの影響を受けたそうですが、汎神論的な神、しかし仏教にも打ち込み、カルマを脱した涅槃の世界に憧憬をもっていたとすれば、そうした神とも別様にも感じます。

まだニーチェ、そしてヴェーバーの行為論にも触れたいのですが、これで終えます。ともあれ、御著復刊、おめでとうございます。年の瀬も迫り、何かと慌しい時節となりました。ご自愛の上、よき新年を迎えられますよう、お祈りいたします。(金子光男)


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です