• 8月13日・水曜日・猛暑ヤヤ和らぐ。こんな句を詠んだ。影帽子 気付けば長し 法師なく。

    話を進める前に、少し将棋のことを言っておこう。これは相手の王を詰ますゲームであることは、誰でも知っている。まず駒の動きに精通したら、序盤、中盤、終盤の進め方を覚えなければならない。そこには様々の手筋、技術、戦略があり、その複雑さは、目もくらむばかりである。王を詰ますまでの変化図は、ナント、10の90乗におよぶという。これがどれほどのモノかは、私には想像もつかない。考えるべき事は、ただ盤上の局面だけではない。相手の癖、人柄、気質、疲労度、棋力にくわえ、自分の体調等など。さらには、将棋観、人生観、価値観などもくる。一手の選択と決定には、それらが入り組み、だから大山康晴15世名人は、どこかで言っていた。「その人の生きかたが問はれている」。

    こうしたことをバックにしながら、ヘボから上手までをふくめて、対戦者は作戦を立て、戦略を練り、難所に向かって事を進めていくのである。頭脳と気力と体力の限りをつくして。これが将棋である。まさに総力をあげた人間同士の戦いではないか。そして、この戦闘に、棋士が敗れた。その敗北は、ただ人間の一つの機能が劣ったのではない。視力、走力、腕力といった類の負けではない。そんな事に敗れても、われわれ人間はビクともしない。そうではない。ここでの敗北はわれわれの知力、構想力にかかわる事である。さきの「人間全体が機械に負けた」とは、そうした意味であった。

    しかし、である。と、ようやく、本題。こたびのコンピュータの戦力たるやどうか?米長氏によれば、ホストコンピュータには600とも700とも言はれるコンピュータが連結され、かくて1秒間に1700万手を読むというモンスターである。しかもそこには、江戸期から残された棋譜が全部記録され、だからコヤツは現在にいたる定石やら戦略駒組みに精通している。また、対戦相手の棋士としての特性や彼がどの局面ではどのような決断をするか等すべてを解明しているとのこと。何の事はない。情報戦において、既にして騎士は敗れている。また、記憶力だけに限れば、棋士はコンピュータの敵ではない。さらに、詰め将棋のように、回答のある局面にでもなれば、棋士が1時間ほど要するところを、コンピュータは数秒で答えを出す。極めつけは、彼には悪手による動揺などと言った人間的な弱み、感情、アセリ、あるいは負けることへの面子ナンゾはさらにない。淡々と迫るその迫力は、薄ら寒いというべきか、実体のない空を相手にするような、なんとも奇妙な感じに捉われても不思議ではなかろう。だが、そうした状況がいかなるものかは、実際に対峙したものでしか分からないであろう。

    このようなモンスターを相手に、棋士は戦ったのである。しかも、敗れたとはいえ、接戦であった。いま少し研究を重ね、対コンピュータ戦に特化した訓練を経れば―–それが棋士にとっていかなる意味があるかはともかくとして――将来的には棋士側の勝利も夢ではない。ここに、人間の能力の高さ、凄さを見るのは、私だけではあるまい。たしかに誰もがそんなレベルに達せられる分けではないが、才能に恵まれ、努力を惜しまなければ、人とは、かくも高きへと昇り得る者である、と私はいいたいのである(この項、ひとまずオワリ。本当は、もう少し続けたいのだが、モウ飽きた)。

  • 8月6日・水曜日・炎熱地獄の日々
    先の事例は、なかなか面白い問題である。人間は、色々の分野で自分より強く、早く、正確な能力をもつ生き物や機械その他諸々のあることを、勿論、知っている。そして、それらと力比べをしようとはしないし、仮にそんな事で負けたからといって、これを悔しがる人はいない。だが、将棋の場合はゆるされない。それは何故か?

    ここで一つ、言葉遊びをしてみよう。「腹の具合が悪い。」「ヒザの調子がおかしい。」「肩が回らない。」「体調がヘンだ」などなど。これらを「頭」に変えてみたらどうか。トタンに意味が変わってしまう。頭がズキズキする。頭が重い。熱っぽい。フラフラする。これらは普通に使われる表現だろう。頭のある箇所を特定し、その不具合を言うのは、ドウも成立しそうなのだが、頭全体をさし、その不調をいうとき、その意味はガラリと変わってしまう。これと同じようなことが言えそうなのは、「顔」である。ためしに、顔がワルイ、と言ってみ給え。絶交を覚悟する他あるまい。

    こんな事になるのは、多分、頭や顔という言葉は、その人物、その人自身を指すことになり、だからそれがイイとかワルイとか言うのは、直ちに人格や能力に触れることになるからではないのか?頭の良し悪しに触れることは、その人の全体に対する評価に直結することなのだ。そのような評価基準が、洋の東西を問わずできあがって今日にいたる。

    ここは、その事の善悪を言う場ではない。話を将棋に戻そう。将棋は頭脳プレイそのものである。それをコンピュータに負けるという事は、人間の能力、人間全体が機械に負けた、といって悪ければ、人間の能力の最も基本的な分野において敗れた、という事になりかねない。もしそうだとすれば、これはもう一大事であろう。この事は、いずれ将棋を越え、あらゆる分野に及んで、やがて機械が人間を支配する先触れではないのか?こんな風に考えたら、そのショックの深さも分かろうと言うものだ。しかし、(次回につづく)

  • 7月30日水曜日・炎暑

    前回予告のとうり、天童市でささやかな公演会をもった。聴衆は30名チョイ、年代的には6,70代の方々で、ご婦人もちらほらみられた。とても将棋に興味があるとは思えなかったが、それでも皆さん、最後まで熱心にお付き合いを頂いた。当会の責任者である生涯学習課長さんから、寄せられたアンケートの結果は大変好評で、御自身も面白く聴いたとの由。ともあれ、私もそれなり、責めを果たせたとすれば、まずは一安心である。これで大学への義理もたった。なお、この度の天童行については、面白い話がいくつかあるが、それはいずれと言うことにしよう。

    今日は、わが話の中の一つを抓んで、お考えいただこう。それは、レジメ5にかかわる話しである。そこでの主旨はこうだ。最近の将棋ソフトの進歩は目覚しく、ついにトッププロさえも負かされてしまう。しかもその負かされ方が、尋常でない。米長氏が負けてからと言うもの、将棋連盟も危機感を持ち、次回については、ソフト開発者、主催者などを交えて様々な協議がなされた。例えば、誰がどのソフトと対戦するかを特定し、その上で各期士は対戦相手のソフトの癖や戦術上の対策を採ることが出来るよう、予め当のソフトの貸し出しを求め、持ち時間を各3時間とするなどである。こうして、棋士側はそれなりの準備期間や研究時間を持てたのである。たしかにそれは、棋士にとっては有難いことではあるが、反面、言い訳の出来ない状況にもなった。ともあれ、このようなお膳立ての上で、ソフト連合5組対プロ5人が対峙した。選抜された棋士たちはコンピュータには明るい実力者揃いの面々である。つまり、将棋連盟としては満を持しての対戦をむかえたのである。にもかかわらず、その結果は、ソフト側3勝1敗1分の快勝であった。かくて、連盟や将棋フアンはモチロン、普段は将棋になんぞ目もくれない人々にさえ大きな衝撃を与えたのであった。一言つけ加えれば、プロ・アマの力量に最も差のあるゲーム、競技は、相撲と将棋と言われているが、それほどにプロの力は絶対的だと信ぜられてきたのである。すでにチェスで負け、そして将棋よ、お前もか。と言ったところであったのかもしれない。

    だが、将棋でヒトが敗北したことに、私も含め人々は、何ゆえかくも大きな衝撃をうけたのであろう。仮に、相撲がブルドーザーに押し出されたら、このことに驚く人がいようか。むしろ、相撲取りがブルドーザーを押し出すほうが、はるかに驚愕事であるにちがいない。だが、この違いは、なんだろう。これが、私の問いである。話はヤットいい所にきた。でも私は、モウ疲れた。今日は、これまで(次回につづく)。

  • 7月23日水曜日・大暑

    明後日、私は山形県天童市に出かける。大学からの誘いで、一つ話をするためである。題して、「将棋と私」。その内容は、つぎのレジメ?から察していただきたい。本日はこのレジメ作りに精魂を使い果たしたため、これまで。

    将棋と私
    於天童市(平成26年7月26日土曜日)
    明治大学名誉教授
    金子光男

    1将棋との出会い

    2将棋に学ぶ

    3仕事に活きた将棋

    4趣味を持つことの余禄

    5コンピュータと人間

    結び

    参考書
    大内延『将棋歳時記』
    島朗『島研ノート心の鍛え方』
    升田幸三『王手』
    松本博文『ルポ電王戦―-人間VS. コンピュータの真実』
    森内俊之『覆す力』
    米長邦男『われ敗れたり』

  • 7月16日・水曜日・梅雨明け近し・熱暑
    この話も4話目になる。今日でけりをつけよう。飽きても来たし。ともかく、私の言いたいことは、こうだ。教師として採用されたその後のキャリアが決定的である。それが彼の人格を固定する。教師を目指す者は、恐らく、中高生時代にはクラスの優等生か、ともあれ勉強ができる。彼らは、だから、おおむね真面目な生徒たちであったであろう。正義感も強い。これは、褒められこそすれ、非難されることでは断じてない。大学では、将来に対する夢と希望にみち、なりたい教科の勉学に励む。他の学生たちが遊びほうけている中、所定の単位の取得に加えて、教育課程の単位もとらねばならぬ。これは傍目には、中々、大変なことのようにみえる。私のように、教職を目指し、将棋にウツツヲ抜かして、あえなく挫折した者からすれば、これは、モウ、神業に近い。しかし、彼らからすれば、それはそれ、中高生時代から身についた克己心のゆえにさしたることではないのかもしれない。

    ここまで書いて、フト、気付いた。私は、難なく教師なれるような、そんな能力に深い憧れ、イヤ、嫉妬心があるのだろう。だから、いつの間にやら、意地の悪い物言いになってくる。ゴメン、と一言あやまって、続けよう。なにしろ、今日中に終わりたいのだから。

    教師を目指す多くの人たちは、その初めから、ある規範の中に身をおくことの出来る真面目な性格を持つ。そんな彼らが、卒業とともに目出たく教師に採用される。そのとき、彼らは齢23,4歳。以来、何事もなく職を全うすれば、教育界で40年ほどを過ごすわけだ。事は、ここから始まる。23,4歳の右も左も分からん、ほんの半人前がイキナリ人様の面前に立ち指導者として立つ。子を預ける親たちは、まずは自分の子供の幸せ、安寧のためを願って、丁重に接し、できるだけ彼の意を汲み、事を荒立てまいと心掛ける。生徒たちも、相手は一応先生なのだから、それなりエライのだろうし、自分を教え、導いてくれる方なのだから、その言葉に従いましょう。マッ、こうなるのが、普通であろう。

    こんな若さで、下からも上からも頭を下げられ、そこそこ己が意をとうせる場に身をおいたら、彼、彼女らはどんなになろうか?さらに悪いことには、彼らは採点という名の不可侵の権限―-これは中高の教師の場合かなりのものだ―すら持つ。社会的評価は決して悪くはない。彼らの自負心は大いに満たされることだろう。こんな状況の中で、彼らは何時、誰によって自らの至らなさを学び、マットウな人間へと立ち戻れるのだろうか。上司や同僚の言葉や指導なるものは、ほぼ無力であろう。ハッキリと申し上げる。これはもう夜郎自大(自分の力量を知らずに威張り散らすこと・『日本国語大辞典』より)そのものだ。根が真面目なだけに、こんな環境の中で40年ほどを過ごせば、己が信ずるところの信念は愈愈かたく、揺ぎ無きものとなるにちがいない。

    先ごろ私は『絶望の裁判所』(瀬古比呂志)を読んだが、同書にも全く同様の記述があって驚かされる。わが国の裁判官は、エリイトコオスを歩み、法曹界以外の経験を知らず、きわめて狭い世界の中に身をおかざるをえない。ここに彼らの唯我独尊の悪習は覆いがたく、ことに目下に対する態度は不遜である。反面、将来の出世を思えば、国家の意を忖度し、その判決はしばしば偏向的となる。そこに著者は絶望をみたのである。

    いずれにせよ、教育界であれ、法曹界であれ、こうした閉ざされた、他からの批判を受けつけない環境からは、多様な物の見方、他者への共感力が育つことはあるまい。そんな処から発せられる言葉は、つねに偏狭で、ふくらみもなく、相手を傷つける武器にはなりえても、ひとを生まれ変わらせるような力強いものになろうはずもない(終わり)。.