• 10月23日・金曜日・曇り。

    ヴェーバーの研究業績をそうした観点から捉え、これを「脱意味化」として特徴付けたのは、折原浩であったと記憶する(もっともこのブログでの私の叙述は、殆んど記憶の中にある怪しげな知識によるものであるから、あまり信用されないほうが宜しい)。このようなヴェーバーの世界観が誰の何を思想的源泉とし、どう形成されてきたのか、について折原氏が論ぜられていたかはそれこそ記憶にないが、そこにニーチェの影響を逸することは出来まいと思う。ヴェーバー自身が、今後のマルクス、ニーチェの影響力の増大を予言していた事が、それを裏打ちする(モムゼン)。事実、1900年に没するニーチェは、漸く晩年にいたってその真価を見出され、ジンメル、ジッド他ヨーロッパの一級の思想家、文学者等に迎えられていくのである。没後、彼の妹を中心にニーチェ協会が設立、運営されて、幾多の知識人達もここに関わったについては、ハリー・ケスラー『ワイマール日記』にもしばしば触れられているところである。

    「人生に意味は無い」、というそうした人生観は、世紀交から第一次大戦頃にかけて、既にもう、それ程奇異ではなくなってきたのではなかろうか。サマセット・モームが『人間の絆』を書くのは1915年である。ここでは、少年期から青年期にいたる主人公(フィリップ)の精神的な成長過程がビルドゥグスロマン(教養小説)風に描かれているが、その多くはモーム自身の精神の軌跡でもあり、それゆえ彼の自伝的小説と言われる。彼の生来の吃音は劣等感となって、少年期からモームを苛み続けたようだが、小説ではそれは「えび足」(跛)に変えられる。幼少期に孤児となった主人公は牧師である叔父夫婦に引き取られ、以来キリスト教徒としての教育と生活を送ることになる。「信仰は山をも動かす」との聖句に励まされ、小学生の身には過酷な戒律と生活を神に誓い、それこそ全身全霊をかけて「えび足」の快癒を祈った。しかし、祈りは成就しなかった。そこで彼は悟る。これは一つの話にすぎない。こうして彼は次第に信仰生活から離れ、ついに棄教に至るのである。神がなければ善悪も無い。結局、人生は「ペルシャ絨毯」に織られた織物のようだ。各人はそこに自分なりの図柄を織り込むだけのことである。以降、モームはそうした人間の所業に目を向け、人間とは何かを問い続けたと言われる。同じ視点にドストエフスキーも立ったが、しかし彼は神無きニヒリズムを否定し、信仰を維持したところに、両者の相違があるが、それは夫々の資質の差もあろうが、むしろ私は時代環境の差ではなかったかと言いたい(今日はこれまで)。

  • 10月15日・木曜日・晴れのち曇り。

    本日からまた、それまでツブヤイテきた我が学問論(の積もり)の話題に戻ることにしたい。だから、ここでは7月28日・火曜日までの論議を引き継ごうということになる。といっても、既に一月半前のことでもあり、もはや書いた本人ですらその内容は覚束ない。それは、読み直せば何とかなるにしても、ただどういう意図で話をし、結末はどの辺りにするか、といった構想というか、思考線までもがハッキリしなくなってしまった現在、事はそれほど簡単ではないようだ。よって、以前とこれ以降とでは話が違う、と言う事にもなりかねない。と、マア、これだけの予防線を張って、いよいよ本題に向かおう。

    今、これまでの文章に適当に手を入れながら読み返してみれば、取りあえず以下の話をこんな風に繋いで見たい。地球上の全ての事象、従って我々の人生もまた、意味なき所業に過ぎない、という痛切な認識である。この世の事は、ただ起こり、消滅しさるだけのことである。ただ、こうした人生観、世界観は何も西洋人に教えられなくとも、仏教的な思考に鍛えられた日本人にはすでに馴染みのものである(鴨長明『方丈記』)。

    にも拘らずこれを言うのは、彼らの場合、すでに見たように、時には神に仕え、また対決しながら、ある確立された科学的な認識を通して事柄の生起一般を、生成、消滅、構造等の視点から因果的に認識するという、言わば苦闘の末の結果だからである。科学知、これは未だ部分知、不完全な知的体系でしかないにせよ、しかしこれへの信頼性は今後高まりこそすれ、弱まることはあるまい。そうした地盤から現実存在を見据えたとき、ただそれは因果の連鎖の帰結にすぎず、それ以外の何者にもあらず、という点で人生上において生起一般は「無意味ナリ」との結論は、私には一点の曇りなく、逃れようのない明晰さで突きつけられているような思いである。

    19世紀末から20世紀にかけての知の転換はこうした意味を持ったのであろう。他方で技術力の躍進と経済活動の拡大、戦争の広域化と長期化と戦火の惨状等々を生み出した。しかし、かかる状況下に生きる人類に、もはや神はなく、生きる指針も与えられない。このような時代に生きる人々は生の意味を問うことよりも、状況に埋もれ、これに流され、刹那の享楽に沈淪する他はないのであろう。ヴェーバーは言っている。「心情なき享楽人」と(本日はこれまで)。

  • 2015年10月2日・金曜日・荒天の後、快晴。

    ここでの首相の口吻は、談話冒頭の日露戦争の勝利がアジア・アフリカを勇気づけた、との言葉に直結する息遣いを感じさせる。それにしても、改めて問う。「挑戦者」を、かような文脈で使うことができるのであろうか。「国際社会が壮絶な犠牲」の上に築こうとする新たな国際秩序に挑戦するとは、一体何を意味しようか。有体に言えば、国際社会の懸命な努力と尊い犠牲を無にしようとする行動である。それはまた秩序の破壊者であり、社会の安寧秩序を破る犯罪者ではないか。それが挑戦者である、と言い換えられるならば(尤も、戦後の内閣が一貫して維持してきた集団的自衛権の行使の縛りを、一朝にして解いた首相であれば造作もない事かも知れないが)、世のあらゆる犯罪者もまた、確立された社会秩序への挑戦者であるに違いない。「お前の振る舞いは、確かに間違っていたけれど、果敢であり、ミンナに勇気を与えるものであった」。こんなことを時の総理から言われたら、その犯罪者はドンナ顔をするのだろう。これはモウ悪い冗談どころの話ではなかろう。これは言葉の乱用を超えた、社会的倫理規範の混乱、イヤ、瓦解である。

    3・ここで指摘したい第3の論点はこうである。今や、日本の人口は、戦後世代が八割を超えるにいたった。そうした世代の国民は、当然ながら、先の大戦には直接の関係もなければ、責任はさらにない。だから、首相は言われた。「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」。この主張に、私は十全の賛意を表したい。ましてや、従軍慰安婦の問題を世界に曝し、我らの子孫たちがこの先、世界中の何処でも、この件が話題になるたび肩身の狭い思いをさせてはならない。それでは、あまりに相済まない。ただ問題は、首相やまた我々のこの思い、願いをどう実現していくか、である。「すでに日本からの謝罪は十分に尽くされ、またそれに伴う賠償も果たした。君たちは、自由な合意に基づき条約に署名したことが、その証である」。日本側からこう宣言して、この問題にケリをつけられない現状を、どう解決していくかが、問われているのである。この場合、一方的に相手側の非をならし、我々の正当性を言い募ることでは、問題は何ら解決に向かわない。むしろ事態はかえって混沌とし、互いの憎悪をますばかりではないか。だが、当談話にその具体策を盛り込むことなぞ、不可能である。談話とはそのようなものでないことは、十分わきまえている。私がここで言いたいことは、相手側はこれまでの日本の謝罪等をいまだ不十分とし、怒り、恨みを解いていない事を肝に銘じ、条理を尽くした対話と手立てを果たし、その上で国際世論の理解を得る、そうした粘り強く、幅広い外交努力の構築についてである。

    最後に次の一文を引いて、この項を閉じよう。それは当談話の中で、私が最も共感し、首相、良くぞ言われたと、申し上げたい箇所である。これまでの歴代内閣は先の大戦におけるわが国の行いについて謝罪を重ね、またその思いを実際の行動でも示してきたが、しかしそれによって諸国の国民の味わった苦しみが癒えるわけでないことを、日本政府・国民は理解する。この文脈で首相はこう続けられた。「私たちは、心に留めなければなりません。 

    戦後、六百万人を超える引き揚げ者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。 

    戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。(以下略)」

    上記の文章は村山・小泉談話の精神を引き継ぎ、さらに発展させた、談話中の白眉であると信ずる。さらに、この精神が政府の様々な施策のなかで生かされ、実現されていくならば、わが国と中・韓両国との良好な関係も視野に入るものと期待させられるのである。

    以上、安倍談話をたどってみると、首相の思いには二つの流れが錯綜、ないし混在しているように見える。一つは、首相の憲法改定に繋がる「美しい国」日本、すなわち明治憲法下で実現した国家像を目指す方向と、二つ目は現憲法における平和国家、すなわち民主主義的な社会についての承認である。だがそれは、戦勝国によって押し付けられた現憲法の所産であり、そこからは戦前に比しての規範意識の弛緩と社会の乱れという現状を生じさせた。であれば、憲法成立の経緯と国家の真の独立を果たすためにも、改憲は不可避である。とは言え,自由・人権・民主主義といった思想と社会制度は、自由主義社会の根幹であり、人類の普遍的価値として認めるほかはない。そうでなければ、またもや日本は世界の「挑戦者」となりかねない。かくて談話は、一方でわが国の戦後レジームへの挑戦に向かいながら、他方で民主主義的な心情に満ちたものとなる。こうした葛藤が、本談話を焦点の欠けた、一読して理解しにくい曖昧な文書にしたのではなかったか。

    追伸・昨日・10月7日、朝日新聞夕刊で、各雑誌(諸君・正論他)が安倍談話についての評論を掲載しているらしいことを知った。興味のある方はそれらについての内容・印象を教えていただければ、幸いである。

  • 9月25日・金曜日・雨。中日を越えていよいよ夜長かな。

     (この項は、9月2日・水曜日の続きである。)

    2・「挑戦者」。この言葉は談話中、思いがけない文脈で使われており、戸惑い、或いは違和感を持たれた方も多かろう。私もその一人である。が、その意味が、私にとって初めて明確になったのは、朝日新聞・朝刊に掲載された一読者(国語教師・女性)からの投書であった。いま、手元にその文章がないため、私なりに補足しながらそれを記せば、こういう事である。そもそも挑戦とは、克服し難い困難や越えがたい壁、或いは難題に直面した者が、それに怯まず、勇を鼓して立ち向かう、そうした姿勢、心情を言い、だからそこには勇気、剛毅といった意味が宿される。で、その反対語は意気地なし、怯懦ということになろうが、これとの比較で言えば、挑戦者とは、普通、積極的な資質にとみ、出来ることなら、自分もそのような人になりたい、そんなプラスの意味を持った言葉となるだろう。

    では、首相はこの言葉をいかなる文脈で使われたか。世界を巻き込んだ第一次大戦後、世界はその悲惨な体験から平和を願い、「国際連盟」を創設するなど新たな国際社会の潮流を生み出した。当初、日本もこれに歩調を合わせていたが(確かに政府は軍部の抵抗を受けながら軍縮、軍事予算の削減に取り組んだ)、「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃」を受けた。かくてわが国は世界の中で孤立を深め、経済、外交の行き詰まりに見舞われ、この打開を求めて「力の行使」に向かうことになった。それが「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき進路を誤り、戦争への道を進んで行きました」。

    これを読んで、いかなる感想を持たれようか。すでに1・で見たように、ここでも外圧、すなわち他者によって、日本は心ならずも道を踏み外したとの論調が見て取れないであろうか。それにも増して奇妙なのは、このような文脈で使われる「挑戦者」という言葉である。これでは、何か日本の行動は、間違ったけれども果敢であり、勇気に満ち、立派であった、と言わんばかりではないか(本日はこれまで。実は9月2日の稿を大幅に訂正した疲労の為。)。

  • 9月2日・水曜日・久方ぶりの晴れ。

    談話が発表されてから、早や半月。その間、メデイアその他で様々に論評され、政府はそれらを含め、さらに諸外国の評価、特に中国・韓国の受け取り方に関心をよせていた。幸い両国とも、談話に対し不満を漏らしつつも、かなり抑制した表現にとどめ、これを何とか受け入れた。よって、この談話の故に、更なる関係悪化を招く事態だけは免れた。これは、わが国にとって実に有難いことであったと思う。ただそのことによって、談話の内容が認められた、と看做すことだけはできないだろう。それは、両国が漏らした不満の内容を少し立ち入って読み取ればハッキリしているし、なによりも中国で現在行われている対日戦勝70周年記念祭を見れば疑いようもない。この度の両国の抑制的な対応は、両国内の政治・経済的状況がこれ以上の対日関係の悪化を許さない、という点に求められるのではないか。

    さて、以下は、我がささやかなる安倍談話の印象記である。何かの参考になればとの思いで記す。私の気になったのは、以下の3点である。

    1.確か首相は、談話中の文章を切り取り、それを論ずるのではなく、談話を全体として読み、その真意を汲み取って欲しい、との願いを表明していた。誠に、その通りであり、異論はない。ならば、伺いたい。この度の談話の眼目は何処に在るべきであったか。談話には前史があった。勿論、村山・小泉談話である。首相は全体としてそれを受け継ぐと言われた。そして、そこでのキーワードは、「植民地支配・侵略・痛切な反省・心からのおわび」であり、それが談話中に込められるかどうかが注目されていた。これらの言葉が文章全体の中に適切に配置され、一読の後、なるほど現総理はそれ以前の談話を踏まえ、先の大戦以前の我が国策を誤りと認め、それを痛切にわび、その深い反省に基づき今後も日本の平和主義を堅持すると、確かに表明したと安心できるものでなければならなかった。

    この基準に即してみれば、本談話はどうであろう。確かにそれらの言葉は談話中に配置され、だから表明されてはいるものの、その文脈は外され、主語が曖昧になってしまった。例えば「侵略」は他の戦闘行為と一緒くたにされ、「国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」、と一般的な平和主義に解消されてしまった。思うに、これでは戦争はイケナイ、だから止めよう、と宣言したに過ぎず、こうした言葉から戦争が止んだ験しはないのである。歴史的事実の認識とはそう言う事ではない。それは「誰が、何時、何処で、何を、どうしたか」と言う徹底的に個別、具体的な事柄の認識である。であれば、ここでの「侵略」は、こんな一般的な意味での侵略にされてはならない。これは一つの遁辞であり、これではこちらの誠意が疑われても止むを得まい。これに対して我々が誠実であろうとすれば、日本が朝鮮半島、中国、東南アジアに侵略し、その結果この地域の人々に対し取り返しのつかぬ破壊と惨苦を齎したと、率直に認める事である。そして、これらの事実を認める事は、必然的にその事への責任を負うと同時に、かかる悲惨を受けた人々への痛切な謝罪に結ばれることにもなる。

    これは我われ日本人にとっては、一つの大きな恥辱である。誠に辛く、出来れば避けて通るか、無いことにしたい所業であろう。しかし、私は思う。キリスト者が全てをみそなわす全能の神に額ずき、己が所業の一切を告白し、神の許しを得ようとする告解とは、いかなる意味か、と。告解者はその時、その身を深い恥辱と悔悟の業火に焼かれ、かくて始めて再生への歩みうるのだろうと思う。煉獄の火とは、これを言うのではないか。また、歴史に誠実に向き合うとは、そういうことであろう。であればこそ、再び同じ過ちはすまい、と誓えるのではないか。

    しかし、総理の物言いには、そのような意識は希薄にみえる。それは、責任の所在を不分明にする。我々は悪くない、と言いたがっているようにみえる。すでにこれは、談話冒頭において見て取れる。19世紀、西洋世界に発した植民地化の圧力が遮二無二日本の近代化を促し、それが日露戦争を出来させた。そしてその勝利が、一方でアジア・アフリカを勇気付けた。だがこうは言えても、その後の朝鮮半島や台湾の統治の問題は不問にされるのである。次いで、第一次大戦後の世界恐慌が世界経済のブロック化を呼んで、それが日本を已むなく孤立化させたとの指摘が続く。ここにおける主語・主体は常に日本を取り巻く他者であり、わが国はその犠牲者のごとく振舞わざるをえなかった。そのように言いたがっているようにみえる。こうなれば、我々にも多少の責任はあろうが、このような立場に追い込んだ他者の責任もあるだろう、と言うわけである。だが、これに対しては、日本が日本の意思を持って、自ら朝鮮半島、満州に進出して行った、という歴史事実はどう認識されているのか、との問いが提起されざるをえまい。そして、談話をこのように読んでみれば、次の論点である「挑戦者」の意味も何がしか理解されようというものである(以下、次回)。

    2、「挑戦者」。