• 2月16日・金曜日。晴れ。
    2月21日・水曜日。雨。昨日の暑さ一転し、本日、冬日と言う。いまだ2月、当然である。昨日が狂っていたのだ。

    都庁による神宮外苑の街路樹伐採問題以来、ビッグモーター社の同事件が取りざたされ、街路樹への関心が高まったようである。『朝日』は早速、「街路樹のこと」(上・下)として取り上げ(’23,11/2、11/4)、その有用性として「温暖化対策・生物多様性の保全・防災」や住民の健康維持の他にも、多様な機能を特記している。ここには確かに「落ち葉・ふん害・交通に影響」など費用や迷惑な面も多々あろうが、それを補う大きな「効果」を認めているのである。にも拘らず、全国的に樹木は「20年で50万本」ほど消失したと言う。それは街路樹の持つ「価値」に対する自治体や住民の無理解にあるようだ。
    だが、例えば府中市、国立市、武蔵境駅周辺の樹々に縁どられた街の佇まいには、ただの通りすがりの者にとってもある安らぎを与えられるが、そこに生活する住民の多くにとっては掛け替えのないものではないだろうか。行政が、街路樹など不要だと言う声に対して、これを力ずくで抑えることは出来まいが、と言って「ハイ、分かりました」とばかりに「潤いがある町が、無味乾燥な空間」になっても困る。そうしたやり取りを、粘り強く、また無理なくこなしていくのが、行政の腕の見せどころではないかと思う。かつてここでも取り上げた金沢市の「まちづくり」はその一例である(山出 保『まちづくり都市金沢』・岩波新書・2018)。
    筆者がここでこれを取り上げるのは、現在、我われは温暖化問題を目の前に突きつけられているからである。これにたいする対策は、国と自治体では異なるのは当然だが、特に自治体は国からの指令を待つのではなく、地域を最もよく知る主体として、自らなしうる対策を積極的に推進することだ。まずは広がりすぎた地域を身の丈に合った区域に縮小し、治水や緑化政策を進め、道路等のコンクリート、アスファルト舗装を土に戻すことだろう。そのためには、広域行政からの転換であり、政治家の勲章でしかない箱もの政策からの決別である。こうした取り組みは、外信によれば、温暖化対策として、すでに世界の先進的な中小都市でなされているようである。人口縮小に喘ぐ地方自治体にとっては、自らの地域の縮小は不可欠であろう。それは、すでに拡大した上下水道施設の維持だけでも命取りになっていることからも明らかである。再び言う。温暖化に向けて自治体には為すべきことは多くあるはずであり、その第一歩として、樹木伐採は野蛮行為だと、強く批判したい(以下次回)。

  • 2月2日・金曜日。曇り。明日、節分。この時期、この程度の寒さでは、今夏の熱暑が思いやられる

    承前。最後に、この種の問題が起こるたびに、不思議な話だ、と思わされる点について一言したい。不祥事に見舞われた政治家は、常にと言ってよいほどに、自分は知らなかった、秘書や会計責任者が勝手にやったと言い切り、その事を愧じない。確かに、自分の仕える政治家の虎の威を借り、勝手なことをし、様々な利益を欲しいままにする秘書や支援者はいるだろう。その場合には、政治家はそんな人間を使った己が不明を恥じると共に、断固司法に訴え、処罰すべきである。だが、そんな話は聞いたことがない。むしろ、温情的に処理するが、厳しく出て、政治家自身の不正が、逆に表に出るのを防ぐためではないのかと、勘繰りたくなる。
    だが、圧倒的に多いのは、政治家自身が秘書に強要して引き起こす、特にカネ絡みの不祥事ではないか。しかし、彼らは鉄面皮にも、lawmaker(立法者)としての権限をここぞとばかりに振り回し、不正が立件できないような法的仕組みをでっち上げては、逃げ込み用の穴倉まで準備する。国民にはついぞ払ったことのない用意周到ぶりには恐れ入る(しかも、この度ハッキリしたことだが、そのように自分たちに都合のいいように作った政治資金規正法だが、それすら彼らは守らなかったことを、国民はどう理解したら良いのだろう)。そして言う。「自分は知らなかった、検察から告訴もされていない。だから、不正はない。むしろ秘書が…」。
    この場合の政治家の心情は、こうであろう。法に触れさえしなければ、何をしても構わない。こうして脱法すれすれの行為に走るが、ここには当該の法が目指した立法の精神に対する敬意、尊敬はまるで欠落している。だがこれは、ヤクザ、詐欺師らが法に触れないように、慎重に仕事をするのとどう違うのであろうか。しかも彼らは、公人なのである。
    それ以上に許しがたい思いに駆られるのは、彼らが恥ずかしげもなく、秘書や会計責任者が勝手にやったことで、自分は知らなかった、と平然と言ってのけられるその精神、心持ちである。そうして、一切合切の責任と罪を、自分の部下に押し付けてしまう。これを恥知らずと言わずして、何と言うべきか。知らなかったことは、すでに彼の落ち度に他ならず、自らの無能を晒していることも分からないのだ。それ以上に、昨日までの自身の半身とも言うべき、掛け替えのない人間を、いとも容易に切って捨てられる彼らの冷酷、非情、身勝手さに唖然とさせられもする。
    こうした政治家は、彼らが切り捨てた人たちにも彼自身の名誉があり、また彼らの家族がいることを、どこまで配慮し、その事を深刻に考えているのだろうか。そこにはそれなりの論理と手当てがあって、そうした犠牲者が被る被害はそれ相応に償われるのだろうか。時に、自殺にまで追い込まれるとすれば、それはもう筆者が若いころ散々読んだ松本清張の世界そのものであろう。清張は、権力や組織が自らの存続のために、その悪事、不都合の一切を弱い個人になすり付けて逃げ込むさまを、執拗に告発して、倦むところがなかった。彼からすれば、人は誰でも幸せに生きる権利があり、それはどこまでも守られなければならない。いかなる権力、組織と言えども、自身の存続のために人間を都合よく利用し、犠牲にし、奉仕させることなどあってはならないからである(この項、終わり)。

  • 1月22日・月曜日。曇り。このところのわが身辺、あれこれ衰運の極みにあり、不安と懊悩に取りつかれ、読書は言うに及ばず、「手紙」を書く余裕、能力を失い本日に至る。
    1月26日・金曜日。晴れ。「明けぬ夜はない」の言葉通り、ようやく危機を脱する。だが、この歳にして、なお試練はあるものだ。いまや願うことは、ただ平穏な日々のみと知る。主の祈りにもこうある。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。あまり浅ましいことには、首を突っ込まないことだ。
    1月29日・月曜日。晴れ。前回の文章、やや手を入れた。

    元旦の大地震以来、被災地の悲惨と困難が今に続いて、痛ましい限りだが、その煽りを受けたのか、我が国の政治の混乱、浅ましさが炙り出されて、これについては、怒りをこえて、情けないという他言葉もない。一方では、掛け替えのない身内を亡くし、また命のほかは一切合切を失って避難所にたどり着けば、寒さと集団生活の苦悩、トイレの難渋にくわえて、温かな飲み物、風呂にも事欠く日々を強いられ、しかも今後の生活の展望を持てないまま途方に暮れておられる。そうした不安と悲しみの重圧に思いをいたせば、何もできないわが身は歯痒いばかりである。
    他方、現在、国会内で「青い顔」をして歩いておられる面々もまた、同じように深い苦悩と、今後について限りない不安を抱えておられるらしい。しかしそれらは「折角かすめ取ったカネ」がどう間違えたか表沙汰となった。まったく迷惑千万だが、かくなる上は、如何にすればもっともらしく正当化できるか。それが叶わなければ、せめて自分とは関わりのない別のヒトのせいに出来ないものか。現在ののうのうとした議員生活を維持し、それ以上に大事な次期選挙の当選を図るためにはどうすべきだろうか。これがセンセイ方を青ざめさせる真の苦悩だと知れば、上記の被災者の悩みとの落差に、国民は救いようのない失望、やり切れなさに打ちひしがれるのではないだろうか。
    国民の公僕たるべき政治家が、不正を働いた上、それを率直に認めず、あろうことか被災者の苦悩を差し置いて、真っ先にわが身の安全策に狂奔する様を見せつけられれば、彼らが国民の大惨事に寄り添う「選良」でないことは、隠しようもない。「情けないヤツ等とは知ってはいたが、そこまでやるか」という思いが募る。
    筆者がこうした印象を持つのは、この度の「裏金疑惑」に対する自民党政治家の姿勢、対応があまりに他人事であり、事態の深刻さについて「バレちまった、マズイ」と言った程度の理解でしかなく、だからまったく上っ面だけの謝罪に終始しているように見えるからである。「収支報告書への不記載」を単なる事務上のミスとして済ます態度に、それはよく出ている。民間であれば、これは刑事罰、損害賠償級の一大不祥事に当たると言うのにである(朝日1/19・金)。
    ズバリ、言う。政治資金法の改正こそ、事の本質である。岸田総理、総裁はそのことを明言せず、論点を「派閥解消」に逸らしている。政治献金の規制は、とうの昔からザル法と言われてきたが、それを今日まで放置してきた。何よりも、資金の扱いについて、派閥の会計責任者と政治家との法的関係を、政治家の関与があっても立件しにくい仕組みに仕立てた点が、ザルと称する理由だ。今回もそれがネックになって、安倍派「五人衆」は罪を逃れた。現在取りざたされている党の対策の中でも、「連座制」は回避し、議員と会計責任者との関係を断ち切り、ただ後者にのみ責任を負わせる従来通りの方法を温存させようとしている点に、事のすべてが表れている。少なくとも、私はそう見る(以下次回)。

  • 2024(令和6)年1月5日・金曜日。晴れ。

    謹賀新年 
    年頭より痛ましすぎる惨事が重なり、それがまた、今年の我が国、そして世界、の行く末を暗示しているようでもあり、呑気に「おめでとうございます」などとは憚られるような思いに捉われております。しかし、それでもここでは「本年もどうぞ宜しく」と申し上げさせて頂きます。
    こうした社会の諸事象については、今年も本欄であれこれ触れることになりましょうから、本日は年賀に関わる我がことについてのみ、一言申し上げるに留めたいと存じます。実は、一昨年、賀状での年始の挨拶は打ち止めにしたとは、すでに申し上げた通りです。それでも本音では、その到来を心待ちにしているところもあるのでしょう。昨年、今年とも百通ほど頂戴した賀状には、それぞれ心の籠った文面に思わず見入ったのですから。それにしてもです。当方からの賀状の労は省きたいが、先方からのは受け取りたいとは、いつもながらのわが心情の浅ましさに呆れると共に、苦笑を禁じえません。そして、このことをこうして明け透けに打ち明けて恥じぬというのも、わが老人力の開花、成長の証でありましょう。こうでなくては、傘寿の坂は越えられません。「己は楽を、ヒトには苦労を」という分けです。
    頂戴した賀状の中には、元同僚(独文学者)からのこのような一通もあり、それには思わず手を打ちました。こんな添え書きがあったからです。「遅ればせながら春の叙勲たいへんおめでとうございます。「手紙」もいちいちうなずきながら拝読させていただいてます(学生にも愛読者がいました)」。特に喜んだのは、学生に愛読者がいたということです。それも、同僚が指示して読ませたのではなく、彼が自発的に我がブログにたどり着き、愛読者になったらしい。この文章ではそのように読めます。だから、何とも言えぬ良い気分になります。この「手紙」の広がりは、我が周辺をこえることほとんど僅か、と言うのが当方の予想でありましたが、それが案外そうでもないかも知れぬと憶測できます。これを大いなる励みとし、また支えともして、今年もせめて途中の立ち枯れだけは免れ、どうあっても年末まではたどり着くぞ、との並々ならぬ決意をもって、なんとかやってまいりたい。重ねての応援、ご支援を宜しくお願いし、新年のご挨拶といたします。

  • 12月11日・月曜日。曇り。
    12月15日・金曜日。曇り。前回の文章に手を入れた。

    早や日没かと思えば、冬至間際であれば、それも道理である。だが、ほんの一月前に夏日を見た当方には、いまだ意識は晩夏か初秋を引きずり、2,3日前にも18度なんて日もあって、とても師走などと言った趣きにはなれない。酉の市過ぎは、もう寒風の夜空と決まっていたのだ。
    そして、政治が無様を晒している。こんな川柳を詠んだ。

    パー券か みかじめ料か 悪ドッチ  みつお

    過日の朝日新聞に、パーティー券を買った企業の話があった(読み飛ばして、メモを取らず日付は失念したが、たしかに読んだ)。「政治家に何かして貰おうというのではなく、ただ仕事の邪魔をされないように買った」。これはもう限りなくみかじめ料に近くはないか。
    そんなことをつらつら考えているうちに、かなり以前、こんな川柳を当欄に載せたことを思い出し、検索してみれば、もう一年以上も前の話になる(’22年8/22)。

    一発が 清和、自民を ぶっ壊し  みつお

    今思えば、予言的な一句となり、よくぞ詠んだとわが身を誇りたいような気になる。安倍氏の逝去が報道の重石を解き放ったのか、統一教会絡みの追及が進む。追い立てられるようにして、政府は止む無く教団解散の方向性を示し、不十分ながら信徒救済の法律も通した。その間、清和会はじめ少なからぬ自民議員は教団からの離脱や絶縁表明を余儀なくされる。細田衆議院議長にいたっては、議長辞職にまで追い込まれた揚げ句、亡くなる直前まで厳しい責め苦を逃れられなかった。
    こうした一連の狂騒曲は、今、突如、最終楽章のクライマックスに達した。ただ今現在、岸田政権の中枢を担っている清和会の閣僚、政府要人6名が一挙に解任の瀬戸際に追い込まれ、辻本清美議員によれば、諸氏は一様に「青い顔」をして院内を歩いておられるそうだ。「清和会は終わった」、とはある古参議員の言である。それどころではない。岸田政権それ自身の存続まで問われ、もし総辞職にでもなれば、現在の自民党内の権力基盤は間違いなく瓦解し、新たな再生への道が探られることだろう。たしかに、自民党の下野はないにせよ、それでしばらくはまともになると期待できる。何ともつましい願望、希望だと自嘲するが、これがこの国の政治風土だとすれば、そう覚悟する他はないだろう。
    それにしても、清和会はじめ自民党の先生方の現在の胸の内は、どんなであろうかとお伺いしたい。恐らくこんな絵図が浮かんでいるのではないだろうか。安倍さんさえ存命ならば、収支報告書の不記載なんぞの些細なことで、こんな馬鹿々々しい騒ぎにはならなかった。報道も無ければ、検察も動きはしなかった。いや、動けなかった。勿論、統一教会問題なぞ、あろうはずもなかった。
    何しろ安倍先生は、身内とされる(とは、自分の意のままにどうにでも動かせる、と言う意味だが)元法務事務次官、黒川弘務氏の検事長定年を無理やり延長し、それに対する世間の強硬な批判も単なる騒音程度にしか気にせず、楽々閣議決定した上で、さらには検事総長への道を開いた方である。その意図は、事が起これば、検察トップとしてその動きを直ちに封印させようとするにあったそうな。だがこの目論見は、黒川氏の賭けマージャンの露見と共に(恐らく役所筋からのリークに違いない)、あえなく頓挫したのは、何とも間の抜けた話である。先生といえどもそこまでは見通せなかったのは、神ならぬ身とは言え、残念の極みであったことだろう。
    他方、黒川氏は法務省トップ官僚ではなかったか。その氏にして、この程度の遵法精神でしかなく、それでも十分務まるということに驚かされる。この事態は、過日、脱税まがいの所業で財務副大臣が辞職に追い込まれた事件を思い起こさせるが、このところの政府高官の頻発する、しかも職務と違反事項がぴたりと一致するというこの種の変事を、どう受け止めたらいいのだろう。多くの国民はインボイス他ギシギシとした法令に苦しめられ、少々の違反も容赦されないと言うのにである。
    このように、上に寛大、下に過酷な世にあって、黒川氏のような能吏が検事総長ともなれば、上司のいかなる違反行為にもあれこれ立派な理由が編み出され、その全てが適法として処理され、世の小賢しい批判は封圧されることになるのだろうか。その時、この世は無法社会に堕ちはしないか、とそら恐ろしくもなる。
    これを見てもお分かりの通り、安倍氏とはそうしたことを、さしたる困難もなく断行しうる意思と能力を十分お持ちの政治家であるばかりか、他を圧する存在であられた。とすれば、同氏の逝去は、氏に連なる方々、とりわけ自民党議員にとっては、惜しんでも惜しみ切れまい。であれば、国葬によってお送りする他はない恩人であった。ここに改めて、氏のご逝去に対し衷心より哀悼の誠を捧げたい。