2020年12月28日

12月28日・月曜日。晴れ。

 

ここに柳田の面白い文章を引いておこう。わが国の場合、「都市には外形上の障壁がなかったごとく、人の心も久しく下に行通って、町作りはすなわち昔から、農村の事業の一つであった。どこの国でも村は都市人口の補給所場、貯水池のごときものだと言われているが、我々のように短い歳月の間に、これほどたくさんの大小雑駁の都会を、産んだり育てたりした農民も珍し」く、だから少々の出来損ないがあるのも我慢することだ(30頁)。

このように、都市は農民によって作られ、維持されるのだとすれば、何ゆえ都市は農村を軽んじ、また自分に都合よく利用するような気風が生じたのか。その理由は種々あろうが、先ずは都市の衣食住の問題がある。元々農民の子孫である住民には、殊に食糧の欠乏がいかなるものかはよく分かっており、しかも生産の場から離れ、もはや自らそれを調達しえないと言う、そうした不安感に常に苛まれてきた。その事が彼らを鍛えて、農村との駆け引きにおいて鋭敏にしていった。「町の住民の殊に敏捷で、百方手段を講じて田舎の産物を」、彼らに有利なように引き寄せ、それを政府も容認し、こうして「都市を本位とした資本組織」を発達させたのだと、柳田は言うのである(31頁以下)。古代ローマ帝国の統治では、都市住民に十分な食料と娯楽の提供が特に重視されたと言われるが、さもなければ暴動を惹き起こしかねなかったからである。ここには、統治上、同じ精神が認めらるのではないか。

グローバル時代の現在、我われは以上のような問題からどれ程免れているであろうか。たしかに今の所、外貨は潤沢であり、また冷凍技術・輸送力等の技術進歩によって食料品はじめ生活必需品の多くを、難なく必要以上に輸入出来る時代である。しかし食糧安保が言われ、資源・環境問題が取り沙汰される現在である。止めどない経済開発も疑問視されてきているのである。

このような時代にあって、わが国はこのまま世界に依存し続けることが可能なのであろうか。しかも大都市は肥大化する一方、これに反比例して地方は縮小し続け、その活力が枯渇する。この事は国や社会の存続を危くさせないのか、と深く危惧する。ましてや、都市とは常に地方の支えのもとに存立するのだとすれば、その地方の極度の疲弊は、都市そのものの否定につながるのではないのか。

 

早々に書かれた文章ゆえ、瑕疵や不備も多かろうが、時間も尽きた。これを以って本年の仕事納めとさせて頂きたい。

一年間のご支援に謝し、来年もまた宜しくお願い致します。良い年をお迎えください。


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