2020年12月23,25日

12月23日・水曜日。晴れ。本日、ようやく年賀状の原稿、賀状を印刷屋に届ける。150枚とひと頃に比べて半減したが、それでも文面造り、あて名書きの苦労を思うと、いつまでこの慣習を維持できるか自信はない。恩師は卒寿近くまで、端正な賀状を送って下さったのだが。

12月25日・金曜日。晴れ。昨日、年に一度の墓参り(東所沢)に出かけた。伸びた柘植や雑草の刈り込み、掃除に、一時間、みっしり励む。冬至の陽は早く、終わってみればほぼ暗夜の体であった。本日のかなりの筋肉痛は、いまだこれだけ体が動く証として、かえって喜んでいる。

実は、筆者には守るべき墓が二基ある。巡り合わせでそうなったのだが、八柱霊園と西部聖地霊園である。そのいずれもが、武蔵野線・南越谷駅を起点にして、左右のほぼ等距離にあるのが、因縁めいている。と言うのも、筆者が春日部に転居する理由は、40年前の当時は皆無であったのだが、もしやこれは、祖霊が引き寄せたことなのかも知れないと、そんな思いが、喜寿を経て益々募るからである。

 

では、都市をつくる「農民の従兄弟」とは、いかなる意味だろうか。わが国の都市では、江戸も大阪も含めて、治世を預かり、これを維持していけるほどの有力者は次第に零落し、交代も激しい。またその市民・住民たちは、例えば江戸っ子と言ってもごく僅かで、それもせいぜい2、3世代前の移住者の子孫に過ぎず、「他の多数は実は村民の町にいる者」からなっていた(17頁)。つまり、日本の都市の多くは、農村からこぼれ出た住民たちか、農民がある時期たまさかそこに居ついている者たちから成り立っている。だから柳田は、「農民の従兄弟」からなる都市だ、と言ったのであろう。言われてみれば、代々市内に生まれ、歴史を受け継ぎ、これを育て上げて、そこに誇りを持てるような西欧型の市民や都市の印象とは確かに違う。

ここでゲーテの文章を引いてみよう。西欧人にとっての都市がいかに誇り高いものであったかが知られるであろう。「ドイツの諸都市が、市民の行動、高潔さ、信頼性を通して、都市としての意味深い統一体を、いかにして形成してきたのか、またそれら諸都市が生活圏や商業を拡大しつつ、大いなる優越をいかに成しとげてきたかを教える歴史にもまして、美しき歴史を垣間見させるものはない。思慮深く、繊細な人物たちにとっては、そうした自治体に帰属している者だという事態こそ、もっとも大いなる重要事なのである」(拙著『汚水処理の社会史』・107頁より)。

西洋人の都市市民としての誇りと自信には、並々ならぬものがあった事はみるとおりである。それは、都市国家として外部世界との交易を通して巨大な富を築き、これを守るために城郭を築いて、自治制度を確立する。そこには、独自の兵制と傭兵を備え、だから封建領主と対決して、しばしば自らの要求と権利を闘い取った歴史に裏打ちされている(興味があれば、さし当りマキアヴェッリ・斎藤寛海訳『フィレンツェ史』(上・下、岩波文庫2012)を参照されたい)。都市はまさに農村地区とは一線を引かれた独立の区域であった。であればまた、都市と農村との機能分化と統一も出来たのであろう。

これに対するわが国の都市の成り立ちは、上にも見たが、だいぶ事情を異にしている。柳田によれば、まず守るべき「富はもっぱら野外」にあって、「窮屈な城壁の中に籠って、固守する必要」が無かった。それ故、「都市と邑里(ゆうり)との分堺が、今以てやや空漠たることを免れない」ことになる(18頁)。言われるように、我われの都市は、そもそもからして農村的な環境の中から立ち上がり、都市化の進行とともに、都市と農村との分離が明確になって来たのであろう。そして、都市の衰微するにさいしては、周囲の村民の移住と援助のもとに維持されてきたのだと言う。こうした目で見れば、現在の地方都市の佇まいと成り立ち、その推移も、筆者には胸に落ちるものがあるのである(以下次回)。


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