2020年12月16日

12月16日・水曜日。晴れ。師走も吉良邸討ち入りを越え、いよいよ年末。前回の筆者の読み通り、政府は、ついにと言うか、やっとと言うべきか、GoToキャンペーンの中止に追い込まれた。これに絡む批判は、当然、甘受しなければなるまい。なお、昨日から本日にかけ萩原慎一郎『歌集 滑走路』(角川文庫・令和2)を読む。たったの31文字の口語体の歌が、現代社会の冷酷さを抉り、歌人の夭折がいかにも惜しい。筆者には、理由は不明である。

 

「社会のたたみ方」と題する本稿を書き始めて、すでに2年を終わろうとしている。その間、本題とは無縁と思われるような分野にも踏み入りながら、あちこち彷徨い、今日まで来た。筆者としては、それらの問題も必ず本題に関わると信じたからである。そして、社会の「たたみ方」の構想は、折にふれすでに示してきたので、そろそろ終結にしても良さそうだが、と言って今ここで終わりにするには、まだ未練もある。もう暫くお付き合い頂こうか。本題には、踏み入れば、いくらでも考えるべき題材がありそうである。それどころか、地方の再生が無ければ、都市の活性もなく、それ以上に人間社会の持続性も失われると考えれば、おいそれとは止められない、と気づいたからでもある。

さかのぼって、本稿の書き出しは、確かこうであった。わが社会の都市風景は、都市と農村の区分けが無く、無計画の中、拡散して纏まりが無いばかりか、それは乱雑な上、特に地方都市の場合、人の住するところとしてはいかにも殺風景に過ぎる。ここから、地方の疲弊を探り、その再生の道を求めてきたのであった。本稿は、こうして書き継がれてきたのである。

だが、こうした景観なき都市像は、インバウンドと称する外国からの観光客を当て込み、経済活性化を目論む政策にもそぐわないことであろう。もっとも、観光目的が市街見物のみとは思わないが、それにしてもこのような街を見るために、わざわざ人びとが訪れようとは、思えない。これに気づいて、最近は政府が、それ以上に地方政府がより熱心に、都市景観についての規制に乗り出してきているようでもある。もちろんこれは、インバウンド対応よりも、住民たちの生活環境の改善になるからであろう。こうして、以下では、まずはわが国の都市の成り立ちについて検討し、次いでそこからの再生の方途を考えて見ようと思う(以下次回)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です