2020年7月3,6,8,10日

7月3日・金曜日。曇り時々雨。前回の文章に手をいれた。前回は粗製乱造の気味があり、情けない。文章は日を置いて推敲してこそ、何とか読めるようになるのだ、こう毎回、思い知らされているのだが。

7月6日・月曜日。雨。本日はわが喜寿の誕生日なるが、佐藤愛子氏の『90歳。何がめでたい』が、分からなくもない心境である。とは言え、動ける間は、周囲に大いに迷惑をかけながら、ジタバタとやって行きたい。

7月8日・水曜日。曇り。この所、事務所には来ているのだが、何やかやあって「手紙」は進まない。今日こそ、ケリを付けたい。

7月10日・金曜日。曇り。前回の文章に手を入れ、多少は輪郭が出てきたか。残りの時間は溜まった資料の整理に充てた。

 

本書は450頁に及ぶ、かなりの大著である。一名「仕事事典」と名乗るだけあって、プロの物書きの他に、耳にはするが、それら仕事の実際と苦労が如何なるものか、筆者には見当もつかない職業人からの文章が多数掲載されていて、中々面白い。以下はその一例である。製紙会社営業部、ミュージシャン、ライブハウス店員、映画館副支配人、女子プロレスラー、ホストクラブ経営者、葬儀社スタッフ、馬の調教師、水族館職員、舞台人、メディアアーティスト、占星術家と言った面々である。他にも、少女期に大変な苦労を負った中国からの女子留学生による、アルバイト生活の健気な記録もあるが、とてもその一々を紹介することは出来ない。

以下では、先のソーシャルワーカーとの関連で「ごみ清掃員」の日記の一端を記すにとどめたい。東京在住の男性。43歳の芸人ながら、生活のために清掃員として働く。恐らく、派遣労働者なのであろう。だが、その職務は重大である。「例えば二週間、ごみ回収をおこなわなかったらどうなるだろう。街はごみであふれ、衛生的にも防犯的な面でも壊滅的な現実が待ち受けているだろう」。

雨の日の作業は、ごみが舞い上がらず、ウィルスが流されると思えば何となく「恵みの雨」にも見えてくる。落ちた箸、散乱するティッシュを拾い集めるにも、恐怖が襲う。「見えないものというのはこんなに怖いのかと初めて知った。しかし怖いからと言ってごみの回収を止める訳にはいかないので、責任感一点で回収を続ける。」家庭からでるごみに紛れた自宅療養の医療破棄物の怖さは格別である。マスクをした作業の息苦しさもこたえる。そんな時には、思わず軍手のままマスクを摘まんだり、雨に濡れた顔を軍手で拭ってしまうことも時にある。「気を付けなければ。誰も責任は取ってくれない。自己責任だ」。

「殺意を覚える時がある」。分別されないごみには、袋に入ったビンや缶を取り出し、その場に置いていく事になるが、それがまた怖い。「袋を破れば見えないウィルスが飛び出すかもしれないと思いながら破く。…出す方は一本くらいわからないだろうとなんて思いながら可燃ごみに缶を混ぜるが、全ての清掃員は全部わかる」。

要するに、作業そのものが感染の最中にいるようなものである。だから、清掃員の別れの挨拶が、「また生きて会いましょう」とは、冗談とは言えない真実味があるだけに何とも言えない辛さが募る。しかも彼らの現状は、こうである。関西の清掃員からのメールである。「もしコロナにかかったら、命をかけて働いているのに無収入になる現実はおかしいのではないか…。僕も家族がいてます。この言葉が僕の胸に刺さった」。

行政経費の削減と民間活力の活性化を錦の御旗として、行政の為すべきすべての業務を民間に任せ、元請業者は下請けにおろし、最終的には、いかなる条件や待遇でも引き受けざるを得ない、生活困窮者にこれらを押し付ける仕組みが出来上がって、もう何年になろうか。しかもここでは、業務に対する「責任感」と誠実さまで要求されながら、確たる保証も無い上、用済みとなれば直ちに切り捨てられる。こんな酷薄な制度が今後も、差しさわりなく存続していけるものなのであろうか。その間に拡大した身分的、経済的な格差と蔑視を思う時、取り換えしの付かない間違いを犯しているように思えてならないのである(この項、終わり)。


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